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死んだらどうなる?

◼️死んだらどうなる!?

非科学とされている分野に興味を持ちだして、約20年ほど。インテリジェンスの上にある未知との遭遇なわけです。

正にこのタイトル通りの探求の20年だった気がします。

20年前に人知れず興味を持ち、更に細々と研究をし、その答えらしきものにたどり着いたきっかけは、「縁は既に頂いていた」「時が来るまで発動しない」の二つに尽きますが、20年ほど前から、勉強されて頂いている先生からその技法を学び得た日から、確信に変わってきたのです。

一昔前の宜保愛子やらおどろおどろしい世界観から昨今のスピリチュアルブームによって、良くも悪くもあの世、この世の解釈がより一般化してきたと思います。

私も現行の仕事、修業をする前は、宗教から非科学とされている分野のあらゆる書籍に目を通し、時にはオカルトの世界も見、更には例えば陰陽師のような術師の世界にも首を突っ込み、現時点で最新の情報は全て網羅しているつもりでした。

頭ではかなりのところまで整理がついていたと思っていましたが、いかんせん実体験と申しますか、あの世も、または霊的現象も、しっかり、はっきり、くっきりと見たことがありませんでしたので、指先の感覚はないままに、確信していた風だったと思います。

そして、今、一見不思議な、知らぬ人、信じぬ人からすれば、オカルトと呼ばれそうな世界に素直に向き合い、誰しもが持つ人間の能力に出会い、磨いているわけです。その上で改めて死後の世界を思うと、また一味も、二味も違って見えてくるので、何事も経験、体験と言われる所以はここにもあったと痛感した次第です。

その上で、過去勉強した死後の世界観を、現在の、、あくまで現在の私の見解と比較してみました。

① 肉体、幽体、霊体は?

これは、あるように思います。大きくは二つ、幽体と霊体と分けられ、幽体がすなわち人霊のように、姿、形を可視化させる肉体にまとっている気のようなものと言えるでしょう。何故、服まで可視化出来るのかは不明。

霊体は、すなわち魂。核みたいなもので、本質を指すものです。

ただ、死後、不幽霊とか未成仏霊とかを指す場合、これがどの段階を言うのかは不明です。死後、仏教用語で「空」になると思っていますので、全てから解き放たれると考えているため、未成仏とか不幽霊とかを、あたかも「その本人の霊」のようにとらえるのは、間違いではないかと思います。

生前、頭脳明晰の人が亡くなった後、短絡的な表現しか出来なくなる事が辻褄が合わないわけです。

おそらく、無念とか執着から来る、人間でいう排泄物のように、意図せず残るもの、漂うものの解釈でいいと思いますね。生霊現象にも見られるように、本人が意図せずとも、憎悪は勝手に鬼化し、他人に悪影響を及ぼし、その見返りに自分も更に悪影響を及ぼす、呪詛の仕組みのようなものが死後大なり小なりあるのではないでしょうか?

だから、死ぬ前までには、全ての執着は捨てなさい、という悟りが設けられているのも理解が進みます。

となると、人間界のほぼ近い次元に意図しない自分の一部(排泄物)を残し(つながり)つつ、死後、生命は太極へと入っていくものと思われます。

②天国と地獄

さて、あの世には天国、地獄があると、幼い頃から教えられてきました。実際のところどうなのでしょうか?いわゆる人間が想像する天国、そして地獄、私の見立てでは、そのような単純な世界ではなさそうです。ひとつ言葉として明確なのは、先ほども書いた「太極」です。太極とは陰陽が混ざり合ったカオスの世界です。

我々の物質界は、陰陽ははっきり分かれ、更にその事象として様々に枝分かれしております。

太極とはつまり、物事に決まりがない、自由と言えば自由、不安定と言えば不安定な世界です。

この次元の変幻自在の物理法則から来る様々な世界観(階層概念含む)を指して、天国、地獄と二極化した表現が生まれたのでしょう。

ただ、、様々な宗教やスピリチュアルが謳う世界が存在するか否かは、断言出来ません。なぜなら、それらは既に「この次元に住む我々の陰陽に分けたイメージだからです。」

ただ、断言出来ることは、サナギが脱皮して蝶に成るように、違う次元に入るということです。その際、立つ鳥跡を濁さずで、出来るだけ身辺の整理と無念、執着なき人生を送ることが大切です。

簡単にいうと、立つ鳥跡を濁す人は、後の人、周りの人が非常に迷惑しますね。それは、後々の自分にも跳ね返りがあることでもありますからね。

太極の次の次元は、無極といって、イメージは宇宙の始まりの前。ビックバン以前の世界。さて、ここにきて二つの選択が待っています。

「生まれ変わるか否か?」

③輪廻転生

さて、次はいよいよ、いわゆる前世、現世、来世を説く、生まれ変わりのループ、輪廻転生についてです。

このことは、複雑に考えれば考えるほど分かりにくい世界であり、どこまでもシンプルにとらえ、表現した方がかえって本質を突くように思います。輪廻転生について、以前までの私は、シンプルに「前の私」から「今の私」に、そして「次の私」になる。といった個の連鎖、すなわち個人がいったん記憶のリセットを行い、あたかもその個人が姿、形を変えて生まれ変わるイメージでした。ちなみに何故、前の私の記憶がないのか?については割愛します。この世は修業にきているとだけ補足しておきます。

表現力は難しく、この説明もあながち間違ってはいませんが、厳密には違います。輪廻転生とは「命の連鎖」であって、決して「個の連鎖」でないことをはっきりしておきたいのです。それには訳がありまして、大きくは二つあります。一つは、個の連鎖のように解釈が偏ると、世に言う「前世占い」とか「退行催眠療法」などと不必要な情報に振り回されるから。二つめは、現人類全てに前世と呼ばれる因果は存在しない。真新しい生命も数多く存在する事実。

先に霊体(魂)=命の話をしましたが、輪廻転生とは、命、生命の輪廻であって、自分という感性が記憶だけあの世にドロップアウトさせて、また生まれ変わるというようなご都合主義ではございません。極端に言えば、貴方の人生、貴方の感性、貴方は、今、この瞬間しかなく、前も今も先もなく、正に死ねばそれまでです。

紛れもなく、人生は一回こっきりです。

しかし、輪廻転生はあるわけで、では具体的な仕組みは何がどうなっているのかは、我々の知る由もありません。

一つ表現として使えるのは、魂すなわち本質とか個性とか、本能的な要素は輪廻する、連鎖していくといった方が正しく・・・いやいや、それもこれも前の自分だ!といった浅はかな発想は三次元の我々がいう戯言なのかも知れません。

更に突っ込んでみると、輪廻転生で生まれ落ちる場所は、地球は地球でも、この宇宙ではなさそうなんですね。いくつか宇宙もあって、ほぼ地球と変わらない星もあって、これをパラレルと呼ぶのか、並行宇宙と呼ぶのか、はたまたインフレーション宇宙と呼ぶのかは、さらなる科学の進歩が解き明かすことでしょうが、輪廻転生をした場合、同じ宇宙の同じ地球(場所)に殆どが行かないようになっているようです。従って、自分とは何か、前世の自分とは、来世の自分とは何かを考える時、全く別物の意識があった方が良さそうですね。

人間には五感があります。第六感もあります。

必要なものは必要だから生まれながらに備わっているわけですから、必要であれば、前世だとかの過去の情報は備わっているはずです。また来世に繋がることであれば、尚更、因果関係を知ることは必要と思いますが、記憶はない。

だから、必要ではなく、繰り返し言いますが、今の貴方は、今の瞬間が全てで、これから先もその瞬間が全てです。

これからを総合して、考えた時、、、そうなると、、、、

④あの世で愛する人に再会出来る?

④については、まだ私の口からはっきりした事は言える段階ではないし、言えるほど温かく世の中を悟ってはいませんし、まだ言いたくありません。まぁ私の近くに、どこか非情で、陰的な悟り方ではっきり言う人もいますが・・・、これには、段階的な仕組みとか、条件付きとか、映画のワンシーンのようにはいかないようです。場合によっては、人類の精神的な進化を待たないと、それを言ってはおしまいとなる可能性がありますので、私も修業の中で、現世を足るに足るほど苦労したあげく言える日が来たなら、出したいと思いますね。

誰しも、この世に愛され、そして愛しにきたわけですからね。

別れは、耐え難い悲しみですから。

せめてもの救いは、やはり「また、きっと会える」でしょう。

そう確信出来るように、あらゆる角度から研究し、表現力を見つけていきたいと思います。

最後に、人の運勢に、前世や霊とかは、ミジンコ程度も関係ないことを強く、はっきり申し上げます。

このジャンルは単行本くらいは書けるな😅
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業(カルマ)と不運

◻️業(カルマ)と不運。

🔴負の防波堤

1、カルマは大中小存在する。

2、カルマは神でさえ逃れることは出来ません。

3、全ての事象を現世、過去生の因果律、すなわちカルマとして説明は不可能です。

3.1 何もかもを業だ、カルマだ、と無知行者、知識オタクを信ずるなかれ。

4、現世は、カルマと不運のイタチごっこである。

4.1 不運は因果応報とも解釈出来るが、不運は不運とした認識が必要。

5. 不運は大中小のカルマを生む。

5.1 輪廻の負の起点と要(かなめ)は不運から。

6. 現世で乗り越えるカルマ有り、時空を超えるカルマ有り。

6.1 時空を超える不運は、誠に不運。

6.2 人の生死、生き方を天が「直接」関与する事なし。世の中は誠に厳しく、そして深い。

⭐︎卵と鶏の論。卵が先か?鶏が先か?

不運を起点にすべし。不運は宿命、カルマ論でもない。今の貴方の生き方(人間性)が全て。

7. 最も不幸は運を落とす事である。

7.1 運を「大きく」落とさない生き方を「まず」心掛ける。

8. 幸不幸、善悪の掴み方をどこまでも学び続ける姿勢、すなわち「学習」の姿勢が明暗を分ける。

8.1 不運は誰しも起きるとの認識を持ちながら、罪を、無念を、怨恨を持ち越す不運を起こさない事、起きない事が重要。

⭐︎負の防波堤として、この世に生まれし時に「関わり」として、授かった能力。

1、直感力(無相含む)
2、学習力(学ぶ力)
3、自然力(運力)

無知は罪同様、知らぬは不幸なり。

🔵正の生き方

9. 徳、善行は、足し算でも、掛け算でもない。という謙虚さ。

9.1 何故ならば、お役に立つことを目的に人間として生まれてきている、という原則。

9.3 自転車の自家発電式ライト同様、漕げば光る、漕がなければ光らない。徳はそれ以上、以下でもない。

9.4 すなわち、真剣に生きる事はお役に立つ生き方である。特別な事ではないという霊格を。

10. 世の全ては、何もかもが頂き物。五体満足、衣食住があるいう事に感謝。全てはそこから始まる。という全人類の合意を。

総論。

不運は不幸の始まり。救い難い不幸の始まり。後付けのような綺麗事では済まない。

運を落とす思想、宗教はごまんとある。

負の起点は不運にあり、陽転、陽の起点は、学びに有り。すなわち人間性(人間力)に有り。学びなき者に救いなし。

学ぶ深さは姿勢から。

姿勢は真面目さから。

真面目さは真剣さから。

人生はまさに真剣勝負なり。

真剣だから熱がある。

熱があるから運が付く。

熱は情熱、真心。

不思議と幸運は真心に宿り、真心はお役に立つ生き方に宿るようです。

同学年の定義。

「何月生まれ?あー、なら学年は一個下か。」

こんな話はよく体験しますが、俗に言う早生まれの人ならば余計でしょう。

一月一日から四月一日に生まれた人は、前年の四月二日から十二月三十一日までに生まれた人と 同学年となります。

これって、運勢学上全くとんちんかん。

区切るならば、立春にすべきです。すなわち、二月四日〜六日あたりを基準にとり、前後で学年を分けるべきなのです。

大前提に、年上を敬う文化は、特に日本は美しいとは思いますが、それは相互に礼節があって成り立つのであって、人間が出来ていない、社会人として出来ていない人が、この縦関係の論理を持ち出したところで、美しいどころか、汚れます。

話を戻すと、本来は立春を境に年が変わり、一年の起点は立春でございます。極端に説明すると、亜熱帯の南半球と寒冷の北半球ほどの差が立春を境に変化するわけです。

それを四月一日まで引き伸ばして、同属(同学年)にくくるのは、自然を大事にしてきた日本人らしからぬ矛盾でしょう。

数十年先には、立春起点で学年が分かれているかもしれませんね。

それと、社会人になれば、生まれ年でお願いしたいところです。

私は人の年齢を確認したことも、同学年がどう?とか、早生まれ?とか、確認したこともありません。

自然に分かれば、良いこと。

近い年代に接する時に、年齢ありきで、対応を変える人に大した人間はいません。

体育会系を否定はしません、何なら肯定派です。しかし、相互に熟した心得、礼節があって成り立つのが体育会系としたい。

矛盾、理不尽を覚える、経験することも大事なことですが、僅かな期間、出来事で十分です。

また、何事にも矛盾、理不尽は含まれているのが社会。先輩、後輩関係だけで学ぶものではありません。

先輩やら、後輩やら、より人間がひとまず出来ているか、ひとまずで、、、ひとまず出来ている所があるか、ないか。

これを基準に。

育ちの悪い人は、何をしても、それ以上の環境には入れてもらえませんので、、、、。

足るを知る。PART2

◼️足るを知る。

昨日、たまたま横になった人の話。

結婚しようと考えていたらしいけれど、その方(相手)が飲み屋の人らしく、職業が問題でお別れになられたみたいです。

年の頃、28.9歳。

大変、気持ちも分かりますし、それだけが原因ではなかったでしょうが、ごもっとも!と共感出来る理由もあることでしょう。

その時は、私はプライベートでしたので、占う云々はなかったですし、お酒の席では特にそうゆうモードにも入りません。

余程の出来た人でない限り、身の丈以上の男性、出会いはないのが世の因果です。自分の事は棚にあげる事が多いのが女性の性でもありますが、、、

あれが足りない、これが足りない、満たされてない、

昨今の日本人は、まことに贅沢と言うか、身の丈知らずというか、何かと要求する人が増えました。

齢80歳近い知人の話ですが、青年時代に親戚であり、育ての親のような人に、その時に色々悩みがあったようで、意を決して、相談をしようとしたらしいのです。その知人は、片親で父親ですが、相談しようと打ち明けた途端に、

「親がおっての悩みなどあるか!」と一喝されたみたいです。

その時、パァーっと世界が開けたというか、全てが分かった気になったそうです。

貧困の時代とは言え、現代にも通じる学びだとは思います。

生きていくにはお金もいるわけで、我が子がいれば、更にお金もいるわ、保障もいるわ、経済力はあればあるほど事足りるものです。

私は何とか生きてこれましたが、私だけでなく、色々な人を見てきましたが、底辺、泥水すすりながらでも生きていける事は実証済みであります。

人は今の条件、目の前の情報だけを見て、判断しがちです。

話を戻せば、昨日お話したその女性もまさにこれです。私の経験で言えば、大体の流れとして、目の前の情報だけで、勝手な判断をする人は、いつまで経っても幸せならず、または次の相手も自分もレベルが下がっている事に気付かない、いつの間にか歳だけいってしまい、婚期も、出産年齢の限度に近づき焦る。

非常に多いです。

これまで、あーだこーだ、これは違うと、選り好みしてきて、自分の好きなように生きてきて、挙句に自損事故を起こすようでは救えません。

足るを知る。

底辺で生きたことがある人で、その底辺で学んだ人に限りますが、足るを知る心得は身についています。

命さえあれば儲けと思えます。

決して貰おう、欲しいばかりではありません。自分にも苦労や努力を課します。

相手の人間性を見ます。ステータスは二の次。もはや無くてもよし。

融通無碍、すなわち自由の本質を知っています。

かと言って、現実はね〜と、現実により過ぎた考えの持ち主は、見事に晩年上手くいきません。

何かと苦しみます。そして、結局、自らが壊します。

小さなヒビに気付かないで、、、得手勝手な女性、我を優先する女性は、そう気付かないのです。若さと、パワーを失えば、はいそれまでです。醜い成れの果ての姿は、まことに惨めです。

足るを知る。もう一つ言えば、苦労の先に何かを描ける、何かを見える女性が一級品であります。

こう言うのも、男女はプラスマイナス、陽と陰です。元々男女は平等ではありません。性質も役割も全く違います。まして、女性が表に出るなら、女性を捨てなければ、場の混乱を招くだけです。でなければ、、、

女性は男性に寄り添いながらでないと、幸せを頂けません。

理屈を超えて、、寄り添う。です。

足りない、足りない、ここが嫌、あれが嫌、もうちょい欲しい、欲しいを言う暇とパワーがあるなら、我が身を振り返り、身を清め、襟を正し、自分を棚にあげていた事を気付きましょう。

さもなくば、快楽に心を奪われた見せかけの人生ですよ。

あの世はない。の矛盾

◼️ 死ねば無になる。という論者の矛盾。

死ねば灰になるだけ、土に還るだけ、という人は案外多いです。あの世があるのか?ないのか?といった単純な議論でもあるでしょう。

あの世はある。とした論者も実際は間違った認識を持っていることが非常に多く、99%が誤認ではないでしょうか?はい、私も当ホームページ上にあるコラム/ブログや、其仙流ブログなどで何度か『あの世』『前世』について言及しておりますので、参照してみて下さい。

今回は少しテーマが違います。あの世の有無の判定を極めてシンプルに説いてみたいと思います。

今があるから過去、未来がある。

今という軸を、存在を、記憶を認識出来るがゆえに、過去が繋がり、未来も繋がるわけでございます。因果律とも呼びますが、誰もが理解を得る内容かとも思います。

さて・・・ならばです。

『無』とは、何もない状態です。意識も、記憶もない、存在がないわけです。

ここが全てです。

無は無であるがゆえに、因果律が働かず、過去も未来もないのです。

死ねば無になる。ならば今はなんでしょう?

今、すなわちこのブログを見ている貴方様の瞬間です。

終わりが「永遠の0」ならば、今も存在出来ないのです。

物理法則上においても、理屈も繋がらないからです。

確かに・・・、当ホームページブログ
でも書いておりますが、亡くなった後、太極→無極という過程を踏むことは述べておりまして、無極、すなわちここでいう『無』という認識で結構です。しかし、、、

『永遠の0』ではなくて、『0』です。

0は有を生み出せる『0』です。

無から有をつくる、と言われますが、正にその通りです。

繰り返しますが、我々が確信しています正しい輪廻論(前世)などの詳細はここでは触れません。其仙流Blogや透のBlogをご覧ください。

難しく考えないで下さい。

極めてシンプルなお話であって、私らしい閃きです。

「死んだら何も無くなる。」
「俗に言うあの世なんてない。」

と言う論者は、二通りあります。僭越ながら・・・、其仙流の主張に則った深い理解があった上で、この事を述べておられるなら二つとも大正解でしょう。しかし、ただただこの言葉通りの意味を主張される論者、更には、大自然への畏敬ではなく、不敬までも感じさせる論者に、ぜひ私が提起するシンプルなパラドックス、矛盾を答えて頂きたいと思います。

明日が永遠に0であるならば、今も存在出来ない。

それではどうぞ。




皆様、因果律はこの先も、貴方が死して尚続きます。

今も、この先も、その先々ずーっと、幸せに、豊かになるために貴方は生まれ、生きているのです。

だからこその苦労と学びと努力を怠ってはなりません。

幸せに、豊かになるは、宿命です。

宿命ならば、逆らうことは許されません。逆らえば、それは「道」から外れた生き方、すなわち外道です。外道は外道の因果のまま、ずーっとこの先も引きずることになります。

そうです、人間学を究めない限り、幸せにも、豊かにも成り得ません。

宇宙、天、大自然の哲理は、知れば知るほどに、感じれば感じるほどに、あまりに壮大で、畏敬せざるを得ません。ですから是非とも・・・、きっかけは私からでも結構ですから、無頓着に生きてきた、知らずに生きている人は、大自然に生かされて、生きていることの認識から始まり、人は人に貢献しながら、人間学を修めていくことは人類、生業の宿命であって、それは裏を返せば、幸せであり、豊かであるという認識に繋がれば幸いでございます。
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和泉堂 坂上 透

Author:和泉堂 坂上 透
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