FC2ブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

奇門遁甲・八門遁甲への問題提起。

中国で生まれた方位学の中で、風水を静の方位学とするならば、動の方位学は奇門遁甲と呼ばれるほどに、日本においても大変有名な方位術でございます。方位術としての地位もさることながら、占いの側面も大変重宝されておりまして、特に中国では、方位というより、占いに特化して活用されています。日本は複合ではありますが、どちらかと言うと方位術として活用されております。

と言うのも、この奇門遁甲は大変複雑でして、流派も多数存在し、やり方、求め方も多岐にわたります。特に日本は伝統的な奇門遁甲の面影だけ残し、全く異質な独自の見方を軸にとっている流派があります。(挨星法)。後に言及しますが、方位の吉凶を定める、方位の象意を求める。ということは、一見、何の疑いもなく素通りしてしまうほどに方位学の常識をついた内容でありますが、これは言葉の誤魔化に気をつければなりません。まず、最初におさえておきたい点ですが、冒頭に申し上げたように、奇門遁甲は大変複雑で、難解です。専門用語の乱立もあり、一般の方はまず理解することは不可能でしょう。といっても専門家自体も・・・ここは断言させて頂きますが、『肌感覚』で全く理解してない中で小難しく知識を知識でカバーしながら研究しているのがこの学問です。

そもそも気というもの全てを人類科学がどれだけ進歩しても、定量化し、性質を解明しきれるとは思えません。従いまして、現代では開運と名がつくもの全てに対して言えますが、正当性を訴える論あれど、詰まるところニアピン論でしかないことをご理解の上、包括的な見方でとらえて頂きたいとも思います。

だからこそ、提供側(占い師・風水師)は実直に誠実に自分の信じる占法や開運法に向き合って頂きたいし、素直な解釈を求めたいところです。

そういう面では、まず難解過ぎるというのはどうなんでしょう。ここで言う難解とは、意味が違いまして、学問の世界は、どの学術論文も確かに素人から見れば難解でございます。しかし、そこに携わる人ら(学生、専門家)にとっては、その学術論文が辻褄が合うか、合わないかの判断が一応出来る。とした前提がありながらの難解と、奇門遁甲の原理と求め方そのものに、辻褄が合う、合わないの基準となる対象がないということもあり、難解である。とは、異質です。

この計算式で、このやり方で吉凶定む。これで気を取れると言われれば、それまででして、原理を検証する原理がありません。

あるとするなら、二つです。

1⃣人知を超えて、気を観れる、感じることが出来る人に託す。

2⃣統計的にあらゆる立場の、特に庶民の方達で数十、数百人規模で、半年、一年単位で実施検証する。

ではないかと思います。


しかしながら、現状だけでも問題提起として、質問したい点は山ほどございますが、先程も申し上げましたが、原理をつく原理がないということで、開運という本質的な概念論に則っているかどうか?が要の議論になりましょう。余談ですが、最近話題のスタップ細胞同様、原理は言い分なわけで、言い分が通る通らないは、最後は追試、検証のみ。開運法も出来れば、1⃣を有する良識人が2⃣の第三者機関を設けて、誠実に追試、検証すべきとも思います。

さて、奇門遁甲は、言わずと知れた古代中国の兵法、戦術として活用された方位術でございます。どこまでも、そのものに対するテーマや含蓄する概念に忠実に。となると、方位学は方位学としても結構ですが、開運という評価は妥当かどうかを議論したいところです。

兵法、戦術。

ここの始まりにつきるわけです。線が鋭い感触はどうしても付きまといます。開運法の本質とは円状。丸み、和の感触と具体的な手法も丸みがいります。まずこの感触から始まりたい。

また、地の利を単純に求めた上での設計(八門)とは、どうしても思えないのです。そもそも地の利の評価は再三にわたり和泉堂は訴えてきておりますが、そのあたりのニュアンスも掴んで頂きながらの展開です。大規模(テーブルマジックとイリュージョンマジックの差)な遁甲術としての確立も目指したわけですから、どこまでも戦術的な知恵や法則を取り入れたと思います。自然の力を純粋に求めるならば、その頃既にあった風水の原理を採用したはずです。論文ブームがあったとは言え、風水の原理を全て無視したとは考えにくいと思いますが、独自の学問を打ちたてたいとした学者連中のエゴイズムは多分にある作品でしょう。気を観、気を感じ、真理を見通す力がある人が作ったならば、このような足し算を複雑に重ねに重ねた網目構造の今の形にはなってなかったとも思います。

話は戻り、どこまでも地の利と人の知恵を足したものであるならば、やはり、やり方、取り方が鋭い線的である。を百歩譲っても、開運という定義と言いますか、限定条件を定めることは必要な気がします。

それは、お分かりの通り、これは戦術で遁術である。ということから、個よりも軍、群衆における活用設計です。もっと言えば、本来は陽動作戦でもあるから、誰かが囮に、犠牲になることもあって、勝利です。群を対象にと言っても本質を突いた使い方は出来るのか?とも思ってしまいます。また、大軍対大軍の生きるか死ぬか、勝つか負けるかが戦術であります。これを例え厳しい社会と言っても、この日本で、片田舎で、日常的で使うとなると、時代背景や風土や空気感に違和感を感じるのは私だけでしょうか?

1⃣奇門遁甲は戦争専門。
2⃣個人より群。群より軍単位。

従って、あえて効果を求めるならば、個人の吉方位旅行やら、引っ越しがどうより、集団、または組織を複数有する会社が、まず目的が明確にあって、特には社運がかかる事業とか。において総力戦で立ち向かう場合において、『秩序、統率を保つ』ことに関しては一定の評価はしたい。けれども、これは開運ではございません。ここははっきりと申し上げたい。勝つか負けるかは、開運の定義に条項に入りますが、この一点張りでしか使えないのは、総じて開運と呼ぶことは出来ません。剛柔、そして中庸あって開運であり、繰り返しますが、概念と構造に円の丸みがあって本質的な開運法です。


と、ここまでは、特に八門遁甲にだけしぼった議論、問題提起でしたが、実際は中国式と日本式は全く異なるやり方でして、細かい『おまけ』を考慮するならば、はい、これが奇門遁甲です。〜〜遁甲です。とははっきりと紹介出来ません。

この『おまけ』が問題であり、結果的に根拠を示せない、扱う側も理解しているようで、理解出来てない曲者です。

挨星法(あいせいほう)は特に有名でして、日本式の代表格でもございます。私は何回見ても、また作り方を見ても、全く根拠を見い出すことが出来ませんでした。

本来は、開運法とはオーダーメイドでなければなりません。それには人知を超えた能力者でなければならない面もございます。

服のサイズでさえ、これだけ存在するのです。Sサイズを着れない人はどうあがいても絶対着れないのです。従って、計算式に当てはめて各方位の象意を算出したところで、そもそもが大変窮屈な博打的な面はあります。また、易経の概念や64卦を取り込んでいて、『あたかも』を装っていますが、これを作った人の思考や徳を問いたくなります。易を立てる、卦を出すとは静ではなく、動です。静に使うのは原理だけであって、方位の吉凶をはかる。方位の象意を求めることを、誰がどのような想いで、何のために。が抜けた中で易の64卦を当てはめて、あたかも象意を貼り付けても、それこそ服のサイズがSのみの店。とか、それこそ服自体ないとは言い過ぎでしょうか・・・。

易を立てると言うのは、儀式的なことも含めて一連の流れをもって、成り立つ。これをもって卦を成すです。太極を取ることも大事な要素であって、サイコロで易を立てる人が多くいますが、それこそ、サイコロでは易は立ちません。易を深く知らないのです。それこそ、この挨星法なるものも、サイコロ易的で、それよりも、上卦、下卦の出し方は言い分でしょうが、概念でも良いですから、腑に落ちる、納得がいく。といった説明が欲しいところです。陰陽五行説と同じように、後からひっつけた。これはこじ付けた感が臭います。十二支はまぁ置いといて、十干についてもしっかり説明出来ますか?私は無理です。暦の付箋的役割、数学的役割としては説明が出来ますが、運勢を観るといった場合やエネルギーを十干に求める解釈や性質があるとしたように求める使い方や、取り出し方をされると、パニックになります。エネルギーや性質、自然との関わりを求めるなら、天動説から地動説は動の関係、干渉においては180度違うわけで、暦を作成するくらいは天動説でも問題ないわけですが、運勢への実数としての干渉を探るならば、調整をしっかり加えているのかどうかも疑わしいわけです。十干そのものについてももっと根拠と理解の幅をつけていかなければなりませんし、強いては五行にも関わる問題提起です。

占い。としてのペーパー的な見方であれば、独自の着眼とやり方で構わないと思いますが、方位学とはニアピン論でおさまると言えど、開運に直接関与するある意味科学的な根拠を軸に持ってる感触がいります。八門の価値は先程述べましたが、ぱっと見は方位学の感触はするわけで、しかしこれがシンプルなところで大切なわけです。

足し算しすぎ。

これが、現代奇門遁甲の大きな課題であり、逆に本来の味を損ねている要因でしょう。挨星法だけではございません。その他にも気学でも概念として存在する八神、伝統的な奇門遁甲で言えば、九天星。当然、九宮(先天・後天)も計算上、概念としても使う派もあったり、二十四節気の巡りを方位の象意に変換させたり・・etc。

とにかく、手相の線を細かく意味付けするが如くの足し算式で結果、芯がぼやけることになるのが、奇門遁甲の成れの果て。です。まして、そのおまけの原理も根拠がどこにも見当たらない言いっ放しの都合式でもあります。『あたかも』は式として、関係として繋がるように見える、聞こえるからやっかいです。都市伝説の大半がそうでしょう・・。

方位学、開運方位学、造命方位学とは、シンプルにして、掛け算式であります。

複雑にして、足し算式は、世の真理から外れます。偽物は複雑にして、中身0のように、会社で言うところの『粉飾』。人で言うところの『見掛け倒し』。学者肌で言うところの『理論武装』。

が、全て当てはまるわけでして、どれも複雑にして中身0になるわけです。人はどうしても『見かけ』に騙される傾向があります。性善説は大変宜しいのですが、本物はいつの時代も、質素、シンプル、飄々(ひょうひょう)とした空気を出しています。

言われば分かる・・・しかし、どうしても見かけに流されるのは、この占い界、運勢学でも全く同様であります。

単純とシンプルとは違います。この差をよくご理解下さい。

スッと心に通る概念を有するものがシンプルでかつ掛け算式であって、尚且つ本物に近いものです。

複雑はあくまで信用の裏付けに持ってきたい。社長、上司に対する報告書は最初の一ページが結論。後の裏付けデータは読みません。それは過程のボリュームを示すもので、信頼度を高める根拠みたいなものです。しかし、複雑が信用度の裏付けになる場合とならない場合もあることも留意したい。この方位学の問題に近いのが薬事。薬の説明書は見ても理解不能。成分表を見ても理解不能。しかしこの下支えがあって、『〜が直接患部に作用するから風邪に効く、〜の効果が膝関節に効く。』として、確かに長い長い研究と臨床実験を重ねてようやく世に出せるまでになった薬は、命を繋いでくれております。しかしもう一方で、何の根拠もないのに効果を謳う、いわゆる薬事法違反のまがい物や、結果論プラシーボ効果である物は次から次へと出てまいります。これら全て、複雑な根拠を印籠に、あたかも理論を打ち出すわけです。悪気がない場合もあるので一概には言えませんが、思い込み、中には狙ってやる輩もいるので、要注意です。

ならば、どう見極めれば宜しいか?と言うことです。

我々のように人知を超えた見方(無相)が使えたら、正面突破しますが、世間はまだそこまでの市民権を得られてないわけです。薬事に限らず、その他暮らしに関わることは、消費者センターや法律やらで体制が整っていることや、原理を検証する原理を持ってるということで、時が自然と解決してくれます。はじめは騙された!と思うこともありますが、人生はこうゆう経験は付きものとした見方も・・・。

こと方位学においては、先程から申し上げておりますが、原理を検証する原理や、お手本が存在しません。ましてや、物理的に解明出来ない、見えないものを体系化しようとしているわけですから、だからどこまでもニアピン論と。

ただし、皆さんの為に断じて申し上げることがございます。また、断じることでこの業界に蔓延する百害を少しでも排除したいのです。

とにかく、開運法とはシンプルである。単純や複雑は偽物、効果薄しとみて。

ここに尽きますでしょう。

複雑と単純のセット代表が、インテリア的風水です。分かりやすいのではないでしょうか?オシャレや清潔感からもたらされる効果を開運とするのは害になります。

開運ではありません。断じて申し上げます。

財布やらパワーストーン、お札なんかは『単純』な部類に。パワースポットなども含めて単純と。

こう眺めて見ますと、世にある占法、開運法は、殆どが複雑、もしくは単純です。

その中でも時の天才がシンプルに取り出して、シンプルにして掛け算式。シンプルにして造化的。を編み出すわけですが、まぁ極々稀の出来事であって、それもその人のみが自得した、他が真似出来ないコツみたいなもので、ここが悩ましく、残念なところです。

かと言って、このままでは占いや開運法は知らず識らずの百害あって一利なし。誤魔化しの世界が続いていくことになり、特に日本において、劣化、衰退は避けられず、本物の概念や手法は、絶滅危惧種に認定されるようになるでしょう。

この負の流れをどうにかして食い止めなければならないと思っております。

小さな零細企業が大企業に勝る戦いになるわけで、吹けば飛ぶ中で、じわりじわりと勝機、好機をはかっております。

半面、これは闘いの側面はあるわけです。共存をはかれるところと、どちらかが否定され、淘汰される可能性は十分あるからです。けれど、覇権的に進んできたこの業界は悔い改める時期が来ております。今一度、日本を洗濯し候。ではありませんが、正に占い維新の幕末期とも言えるでしょう。圧倒的に幕府側の人口が多いわけですが、吉田松陰氏の草莽崛起のスローガンではございませんが、まさにそういった意味でお声を下さる方のご一報を心よりお待ち申し上げております。

石高も低く、村にもならないほどの小さな村ではありますが、近い将来、幕府と直接渡り合えるほどの力をつけてまいりたいと決意しておりますことを締めの言葉とします。
スポンサーサイト

運は発電システム。【モーター発電を例えに】

方位学【風水・吉方位】で「開運する。」とは?【モーター/発電理論】

方位学と言いましても、多種多様、多岐にわたります。

ここでは、大きく住み分けて論じてみたいと思います。

【風水全般】 & 【恵方まわり/お水取り】 & (余談:奇門遁甲)

表題に書いております【モーター/発電理論】とは、モーターとは、周知の通り、原動機です。そしてこのモーターを利用して、発電も出来ることも周知でございます。モーターを裏返せば、発電機、発電機を裏返せばモーターということになります。しかし、モーターに発電システムを組み込まなければ発電は出来ないわけです。車も自動車も自転車(ライト)もその原理を利用して、発電システムとして複雑から簡易版まで利用されております。

【風水】は、以前のコラムにも記載しておりますので、詳しく説明は割愛致しますが、モーターという側面はありますが、裏返しの発電という側面とは切り離したシステムになっております。刹那的という概念は、この表現の裏付けにもなっております。何故か?端的に言えば、家相は方位に「距離を有さない」ということです。どれだけ補助的な秘策、秘術を施しても、このモーターと発電の理論のセットにはならないということです。「発電」とは「運」です。

「発電」=「運」

とは言うものの、モーターはモーター役割は明確にあるわけで・・そして、風水は、以前のコラムにも記載しておりますが、施したその時、その瞬間は、パチっと発電致します。その発電量は微々たるもので、その風水術の程度によります。しかし、暫定的と言いますか、使い捨ての発電システムですので、以後、発電し続けるか?どうか?という疑問においては、はっきりと言いますが、風水限定においては、発電し続けません。

「風水」はいくら極めても発電し続けることは出来ません。

次に、気学で言うところの、「恵方、お水取り、吉方位まわり」です。いわゆる「距離を有した開運・方位術」ですが・・、これも以前のコラムに書いておりますように、論理破綻した学問です。しかし、稀に偶然に条件が重なれば吉方位は踏めることもあります。さらに稀にその偶然が続いたとしても断続的であるということです。そして、モーター、発電理論で言うと、見せかけの発電システムは組んでいるにも関わらず、稀に発電もしますが、次の恵方まわりの日、お水取りの日には、前回の発電で一瞬貯まった電気【運】が「あれ・・ない・・・」ということがあります。これは、発電システムは組んでも、その発電操作に誤りがあるということに他なりません。

「恵方、吉方位まわり」は、発電操作、発電の仕方に問題あり。

では、以上のことから、モーター、発電のシステムと、その操作が明確なものは何でしょうか?

それは、結論から申し上げますと・・・・

日の方位を、日の距離を有した吉方位まわりを程良く行うことです。(※ホームページコラムでは継続的と申しておりました。)

そして、その補助(スーパーサブ)として刻とその日の方角が出てきます。

要するに、発電し続けるかどうかが問題なわけです。発電し続けるということは、電気が貯まっていくということ・・・言葉を変えれば「運」が貯まり続けるかどうか?が、開運には、本来の本物の開運には最も大事な必須条件でもあります。

「発電し続けるシステムの唯一の方法は方角と日と刻を適度に追っていくこと。」

そして、この発電し続ける、発電システムは、さらに文学的に言葉を変えれば・・

発電し続けるということは・・・ 川の流れに見るような・・「 流れ 」を作るということです。

「運」は”はこぶ”と書きます。「運」は「流れ」無くして本来の「開運」はしません。「開運」には、この「流れ」をどうつくるか?前提に「流れ」を作るという概念が必須です。

「流れ」は循環です。「流れ」は円運動です。

さて、この「流れ」を念頭においた時、「風水」の特に陽宅「家相」に限定してみますと、この「流れ」に準じた概念があるのか・・・?ご想像下さい。

そして、恵方、お水取りにおいても、断続的な振る舞いからしてみますと、「流れ」に属した概念があるのか・・・?ご想像下さい。

「 流れ 」の概念。「円」の概念があって、本来の「運」、本当の「開運」に。

また、余談では、ありますが、奇門遁甲の時盤を利用した、日の吉方位まわりもございますが、

これについては、奇門遁甲コラムと、次回のコラムで合わせてご感想下さいませ。「流れ」の概念と「円」の概念があって、完成です。「円運動」の概念というよりも、「線」そして、「鋭い線」という概念のような感じがあります・・・ね・・・。

「奇門遁甲の日の吉方位まわりは 線・・「鋭い線」の概念が・・・」

以上、少々、断定的な物言いではありますが、今回は、お伺いを立てるコラムではなくて、次回のコラムに向けて、拍車をかける意味において書き綴りました。何卒、ご寛容のほど宜しくお願いいたします。

風水で開運するのか?

我々、和泉堂がお客様より「何か役に立つものはございますか?」と申し出がありましたら、唯一「和気修方」ならございますが・・・と即答させて頂いております。

何かお役に立つもの・・・とは、お客様の意は「開運」。運を上げるに何か良いものはございますか?とお聞きになられているわけです。占法も星の数ほどあれば、開運法も星の数ほどあります。厳密には「勝手に開運と名を付けている品物、行です。」

代表的なものは以下になろうかと存じます。

1.パワーストーン系
2.置物・掛軸系
3.財布など小物系

4.家相・風水
5.恵方まわり、お水取り
6.パワースポット巡り
7.祈祷、まじない

これより、更に流派に分類し、細分化すればまだまだ溢れるほどの表現が出てまいります。

私どもプロの目線で申し上げれば、まず小物系やら置物系、パワーストーン至る「何かを身に付ければ、とか、何かを置けば」的なことで「開運」します。という宣伝はこの業界に薬事法なるものがあるならば、ひっかかるのではないでしょうか。まず前提に「開運」の定義をしっかり認識した上で身の丈にあった目的、効果を謳うことが良識的であると思います。

当方も再三申し上げている開運についての言及でございますが、字の名の通り運が開けると書いて、「開運」であって、道が開ける、事態が好転する、事が成就するなど、人それぞれに、ケースによって様々に当てはめることが出来る大変広義な言葉でもあります。開運と名を付けるならば、まず押さえるべき原則(条件)は、「本当にそのことが直接の原因(起因した)と断言できるのか?」という点でしょう。これが何でもない疑問でありながら、検証できる術を持っている人や検証できる方法は現代は皆無であるということでしょう。

昔から「ゲン担ぎ」や「縁起物」ととらえ、これを持ってから、これをしてから調子が良くなった・・・と入口出口においても「個人の想い」を優先してきたのがこの開運業界の歴史でございます。果たして、このままあやふや(曖昧)な学問で良いのでしょうか?と言うのも、正当な開運法にはしっかりとした概念があり、また概念(理念)に則って効果も絶大にあるものです。従いまして、殆どがまやかしであったり、たまたまであったり、人の努力が大半であったりすることが多くあるわけです。

「いや、それでも良いことがあったから・・・」

と個人の想いを自他共に尊重される方はそれはそれで宜しいとも思いますが、こういうケースでも後が続かない、後で後悔するといった人が多くいることも知って下さい。「気休め」「癒し」に酷評をつけれる立場でも権利もなくて、そのもの(開運法)自体がそれだけの価値であったとしても本人の趣向であれば、誰も責めることは出来ないわけです。しかし、問題はお客様がそれについて過剰な評価をしている、間違った認識を信じ切っている、多大な費用をかけている、それで周りが迷惑がかかっている・・・となると、これは、このままほっておくわけにはいかないわけです。それもこれもメディアから始まり、開運業者、占い師の全く未熟な認識と思い込み、嘘、お金儲けの成れの果てが、現状の混沌とした「浮き足立った状態」になっているのです。

まず、運についてですが、これはホームページ内、ならびに様々なところで公言、主張しておりますのでここで長文にわたり、説明は致しません。ポイントをまとめてみます。

Q 運を上げるためには?

① 人間性(徳)の向上
② 自然力

①については、何をどうやっても欠かすことのできない人の生業みたいなものです。良い人生を、豊かな人生を送りたいと願うならば、人間力を磨く、鍛える、成長することは三度の飯の如く一生のテーマとするわけです。しかしながら、世の中は一歩外へ出れば7人の敵がいると言われるくらい厳しいのが社会です。また人はどこまでも怠慢がある生き物、濁りやすいのも人の性です。両輪があってはじめて車は走るわけで、人間力だけに頼る生き方は時に挫折だけを味わうことにもなりかねません。そこで、出てくるのが自然力、自然を活用した運を作り出す方法です。人の営みは、一人では生きていけるはずもなく、「お陰様で」ここまで育てて頂きました。自力と他力の兼ね合いが人生であるように、運も自力と他力の兼ね合いのバランスで成り立つようになっているようです。ここでご注意頂きたい大事なポイントは、では運とは自然から頂くものなのか、作り出すものなのか?という見方ですが、天人地では天運、地運、人運と分けております。この場合の自然からという立ち位置は、天地の恵みを指します。従いまして、頂くものでもあり、作り出すものでもある。が正解です。しかし、正当な開運、正しい開運の概念に則るとした場合は、和泉堂の立場は天運に重きを置き、地運を重きに置く開運法は、限定付きでとらえております。ですから、「運は作り出す」が正しい表記としたいわけです。天運は実は頂くものではなく、「作り出す」が正しい解釈なのです。反対に地運は「頂くもの」で誤りはないものとします。


Q 自然力の運とは?

① 天運、地運がある。
② 開運に直結するのは天運。
③ 開運に関節的に関わるのは地運。

さて、和泉堂の立場から話を進めると、天運こそが開運に直結するとした場合、この「作り出す」とする意味合いをそのまま開運法(仕組み、やり方、概念)に照らし合わせる必要があります。逆に「頂く」といった意味合いを既存の開運法に照らし合わせすると自ずと優先順位(削除法)が決まってくることが分かります。

まず、置物、掛軸、パワーストーンなどは、提供側の言い分をそのまま採用するとして「そこに宿る気、パワー」を頂くとする定義があるわけです。従いまして、これらは元々小さな単位である上に更に「頂く」とした立場の開運法です。

次に、パワースポット系ですが、これも規模が一見大きくなっただけで迫力がありそうですが、「そこに漂う自然の気を貰う、頂く」場所であって、またそれはど真ん中の地運となります。

祈祷、おまじないですが、これは頂くより、どちらかと言えば「作り出す」的なニュアンスに聞こえますが、これは天運でも地運でもなく、極端に申し上げれば天人地の人に値します。これを運と呼べるかどうかが問題であって、例えば、外科手術は運の意味合いと比喩的に相性が合うのか?という観点です。運は永続的でかつ必要な時に必要なだけ舞い込む、使える、メイン銀行的な存在のようであることが条件、仕組みであるので、その場の治療的回復が運を作った、頂いたという解釈はいささか分野が違うように思います。ヒーリングと言われるものであったり、気功と呼ばれるものも同様です。

次に方位学ですが、これは「作り出す」テーマと「頂く」テーマが混在している分野です。

先に挙げました恵方まわりやお水取りなどは、我々のブログ(水鏡庵ブログ)などでも再三申し上げております気学のカテゴリーに入ります。まず開運法を論ずる前に論理破綻、原理破綻している点をもって、問題外とさせて頂きます。

次に、方位学の中で最もポピュラーでもある風水についてです。一般の方は風水について理解しているようで、理解出来ていないあたりが本音のところではないでしょうか。流派も多数存在し、見方、やり方は様々です。地理から設計する、坐向で設計する、それはそれは何がより正しいか?は素人では分からないと思います。

さて、まず和泉堂としての立場で風水をどうとらえているか?と言いますと、結論から申し上げれば正しい「開運」というには、あまりに距離がある方法であると認識しております。

多種多様の開運法がある中で、繰り返しますが、「自然から作り出す運」であるという概念と「天運こそ開運に直結する運である」という点から言えば、「方位学」を他においてありません。方位学こそが限りなく、もれなく天運に通ずる開運法であるとも思います。風水、風水と言いますが、厳密にいえば方位学の中に風水はあるわけです。

では、なぜ、風水は天運に直結せず、正しい開運と言い切れないのか?という根拠ですが、これは和泉堂のホームページ内コラムでも詳しく掲載しておりますので、そちらをご覧頂きたいのですが、それは「静」か「動」かの差です。方位学とは距離を有してこその方位学であり、運が作り出せるとしている概念を尊重しております。コラム内では運を発電システムに例えておりますが、磁石とコイルの関係にみられるように、動いて、「動」があって電気生ず、運生ずです。風水は台風の目のように動きのないものをつつくわけです。簡単に申し上げれば、人が動いてはじめて運が生じる、作り出せる、そして貯めることが可能になる発電、蓄電システムです。従って、僅かでも家まわり、家の外に方位を求めて、そこに人の活動が加わることで運の方程式は成り立つのであって、「静」は〇に近く、〇にいくら何を掛けても、〇ないし微量なわけです。

従って、簡潔に申し上げれば、風水はどこまでも「静」の開運学であって、天運は生じる事は期待出来ないということです。

風水に価値を見い出すとして、採用すべきは地運であるとは思います。小春日和に窓を開ければ良い風の匂いが入るのと同様に「良い気」が入る。ことはあり得ると思いますが、それは地の気であると・・・また、風水はどちらかと言うと、良い気を取り入れる側面よりも、「悪い気」を入れないという対策としてより力を発揮するようにも思います。

「清潔感」を保つことは、開運に間接的に関与するものです。体を綺麗にすること、トイレを掃除するといった悪鬼(悪気)を貯めないことは大変重要な心構えであります。

加えて、良い気も時折風に流れてくるとなると一層に香は増すわけでして、人の魅力も自然と上がるわけです。地の気、地運はそう人の魅力を上げる・・・浄化的作用はあるものと思われます。療養的であるとも言えそうですが、天運とは全く異質なものと、どうぞどらえて頂きたい所存でございます。

天運は資源同様、生成発展、造化には欠かせないものであります。資源なくして製品もなく、資金も生み出すこともできません。

天運(資源)の供給が絶え間なくあって、そして人(技術・人間性)が高まるにつれ質、規模が増し、資産が増えるわけです。天と人の掛け合いによって地(環境・資産)への循環していく流れが実社会における天人地、天運、地運、人運の関係と言えそうです。これはどこまでも実社会は「動」であり、「動」の概念に沿った天人地の役割としております。

産まれながらの・・・とした「静」における天人地、天運、地運、人運と混同するから、風水で開運した、パワースポットで開運した、パワーストーンで開運したなどと、因果関係を棲み分けできないままになっているわけです。

我々は、どこまでも産まれた瞬間から「動」の中で育ち、学び、前へ進むわけでして、与えられている財産も活かしながらでも、「作り出す」創造(造化)していくという姿勢と概念を大前提に置かずに物事をとらえ、一喜一憂していても、いつの間にか裸の王様になっていることや、資産を食いつぶすことになっていることも。

また、動における天人地、実社会における天人地の前提を踏まずに、運の認識をはき違え、過信しすぎると、自分の努力、自力の可能性さえ気付かず、蓋をしてしまうこともあるわけです。

すなわち、人世、目標に、夢に、現実に勇気と自信を持って進む上で、「自分の成長にピッタリ寄り添う、互換性のない運つくり、開運法を採用すべきと。」

それは、紛れもなく「天運」に直結する原理であり、それは今のところ方位学以外ないわけでして、それも「動」の概念「造化」の概念を有していることが必須条件であるという結論です。なお、方位学の有名なもので「奇門遁甲」がございますが、こちらについてはまた時期を見て論じてみたいと思いますので、今回のコラムでは控えたいと思います。

まとめとしましては、人に開運を施す場合は、その人の器、背景を考慮した上で本来は提案すべきものであって、それからの過程や一連の流れをよく考察した上で結果の検証もすべきであります。何でもかんでも当てはまる、適用するものではない。ということを知って頂きたいです。ここまでの内容を具備し、追求するのは、真剣に開運法を採用するお客様の立場で考え、論じていることを改めてご理解下さい。

既存の開運法で全ての人に適用するといった100%の開運法は存在しません。まして、それが正しい、本質的な開運法と呼べるのかどうか?の問題も大いに含んでいるという事実も。

しかし、天運は不思議なもので、その方が自身の人格を求めるならば100%適用する、作用するものであることも認識としてお持ち下さい。

よって、これからの開運法の棲み分けと歴然たる価値の認識と活用方法の健全化を願うところです。

プロフィール

和泉堂 坂上 透

Author:和泉堂 坂上 透
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。