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イスラム国問題について。


1989年に起きた女子高生コンクリ殺人事件。

残忍さと稀有な事例という面では日本の犯罪史上、3本の指に入るのではないかと思います。

人はここまで鬼畜になれるのか?と恐怖で眠れなかった日を思い出します。


有史以来、人間の残虐性は語るに足らぬほど積み重ねてきました。どこでどう間違えば、非道、人道を大きく外れた行為に至るのでしょうか?

全く違った視点で言えば、サバンナの弱肉強食、または食物連鎖です。動物界であるから違和感なく解釈出来てしまうわけで、我々の食卓にも毎日のように同じ生き物(哺乳類)が並んでいるわけで、、、冷静にとらえてみると残忍極まりない矛盾した現実でございます。

泡のようにただただ命の連鎖を繰り返すことを突き詰めてしまえば、生命に、生き物に何の意味、意義、価値があるのかさえ不明瞭になってしまいます。

同じ生命とする人間だって、突き詰めて考えると同様のとらえ方も出来ます。

過去のコラムに、人は差別はないけれど、区別はあるとしました。これは確かに明瞭な原理です。とは言ってもこれほどまでに落差があることが受け入れられない気持ちです。人が人として生きる特権は、あたかも脳が作り出したエゴ、偶像のように思えてなりません。

日本は、人が人として生きる権利が守られています。確かに人間性に問題がある、騙す人間もいる、非道な人種もいる、しかし、区別の原理から見れば、世界に類を見ないほど、陽の世界を持つ民族が多かったことが、ここまで豊かな国、他国との協調の中で成長してきた所以とも思います。

◼️抹消した後

良識の欠片も持たぬ人種は、開運の真逆どころか、闇の世界です。大天使ミカエルとサターンの闘いとでも言いましょうか、闇のまだ闇に入り込んだ場合、抹消しか道は残されていません。

抹消です。

陽の世界が多いと言いましたが、この数十年は、日本も、世界もやや陰の世界が勝っていました。ほんの僅かな開きが、因果応報となって現状の惨劇を生んでいるわけです。

◼️自分の蒔いた種は自分で刈る事の虚しさと愚かさ。

この事態は、詰まるところ先進国が蒔いた種であることは明白です。(かと言って、非道さを肯定出来るはずもなく、情状酌量の余地はありません。)

そういった歴史の中で生まれてしまった闇の胞子を、仕掛けた側が抹消する。負のスパイラルとはこの事です。余談ですが、イラク戦争においても私は当初から感じていましたが、フセイン支配で構わないと。それはそれなりにやっていく国もある、具合の問題で、傲慢な見方、介入をし過ぎた結果です。

そもそも、この全ては米ソ冷戦が南アジア、中東問題の火種を作ったことを忘れてはなりません。

話を戻しましょう。

抹消することは避けられません。停戦、休戦、終戦はいくども国家間、民族紛争、ウクライナ問題も先日二回目の停戦協定を発令しましたが、政治的介入で収める事が出来る闘いが殆どです。しかし、テロは政治的介入、交渉、譲歩、いわゆる手打ちが通用しない。

ならば抹消しかないのです。

しかし、抹消、弱体化させたところで、新たな不良債権と言いますか、新たなテロ組織は必ず生まれます。

そして、また抹消、弱体化の繰り返しになるでしょう。

これらの闇の胞子は、先進国が世界の制度設計、利益構造を作る際生じた「ロス」みたいなものです。どんなに優れたメーカーでも必ずロスが出るように、宿命的でもあるわけです。だから、、私が言いたかったことは、ロスは覚悟の上ではありますが、メーカーとしては、良い時のトヨタを目指してもらいたいわけで、三流メーカーの姿勢で世界秩序を作るとした正義感を旗印に収益を上げようとした欧米、欧州が問題だ!としたいわけで、全てを否定しているわけではございません。

三流メーカーが作るものですよ?製品も三流、製造過程においてロスが大量に出るに決まっています。

出たロスは、再利用するか、廃棄です。

ロスをいかに少なくするか?これを考えると、やはり日本が世界のリーダー、メーカーになっていく事ではないですか?

番犬にアメリカを。

それには、自国も形上でも武器を持って治安維持に向かわないと、、、平和憲法の一文は付け加える必要はある、に繋がります。

罪なき人が、残酷なまでに命を、権利を奪われる事だけは阻止しなければなりません。

テロ以外でも、貧しい国に産まれてきた子供達、民族の争いで非人道的行為を受けた人達、、、

産まれてくる必要がない、けれど、産まれてしまう、、この人間の本能がゆえ、天の采配がゆえ、、、

全く答えがない、突き詰めれば、突き詰めるほど分からなくなるのが真理と言うものです。

とにかく、一刻も早く根絶やしを。


ですから、我々が展開している「無相」の普及、スタンダード化が宗教を超えた存在に。

天に、神に近付く儀式、戒律はいらないわけです。

そう、「見立て」はいらなくなるわけです。

鍛錬し、どこまでも素直になれば、天の意、神の意、導きは、既に人と繋がっており、次元を超えて、誰もが、シンプルに、直接導きを受けることが出来るのです。

それは、、、、。

天動説を未だに唱えているのと、超ひも理論を議論しているほどの差がある。

天動説信者に説明しても理解出来ません。

それは、先進国でも同様で、新興宗教でも同じ。

または、スピリチュアル信者にも同じ。

最新科学のようで、相対性理論どまり。

無知は罪であり、まさに自己責任。

聞く耳を、理解しようとする気持ちが僅かでも湧くと、世界はガラリと変わる。

情報も、真理とされるものも、技術も、何もかも、「更新」していく姿勢がないと、進化はなし、ダーウィンが正に言った言葉が全て。

それは、私も同じ。

ただ、見渡す限り、我々の業界において、既存の概念全ての立ち位置、まつわる論理をある程度説明出来て、尚且つ、我々の持つ哲理、技術を超えるものが、「皆無」であるから、自信を持って、前に出ようとしているわけです。

ただ、、、、

日本は、使命を持てるだけの器がありながら、、、

現代人は、平和ボケ、軽薄であること、一流、古典を学ぶような立派な人物が少なすぎることが、浸透を妨げています。

実は、我々の活動発足時は、シンガポール周辺からスタートしようか、などと真剣に議論したほどです。

真剣勝負の国でなければ、または、業界が産業化し過ぎていない国、素心の国でなければ入らない。

誠に悩ましい世の中でもございます。
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愛について。

数千年もの間に殆ど言い尽くされてきた「愛」について、今更、新しい価値を見い出すことが出来るのでしょうか?

「愛」の定義は、時代、国によって様々に変わってきたものと思います。特に宗教は「愛」の定義、愛の教義においては、他の追随を許さぬほどに表現に知恵に力を注いできた歴史がございます。また、近代的な思想系団体の「愛」の表現たるや・・・恐れ入ります。

皆さんが広く愛について、考え、体感することと言えば何でしょうか?例えば我が子に対する思いであったり、お子さんがいらっしゃらない方は恋愛ではないでしょうか?

「愛」という漢字が入る言葉(熟語)は多数存在しています。日常生活でも、何気に使う言葉でもありますね。それだけ人の営みに大事な要素であって、無くてはならない前提(心構え)のようなものが「愛」ではないでしょうか?

日本語としても、日常会話としても、頻繁に「愛」の付く言葉を使っているにも関わらず、どうでしょう?「愛」そのものについて、深く考えたことはありますのでしょうか?

はい、まず私からお答えします。

「ありません。」

これは、占い師という指南役の仕事をする前から感じていた違和感です。

何故、こんなに日常に溢れている「愛」について、コンビニより遥かに多く目に、耳につく「愛」について、ある団体は、高い檀上から、「愛を出せ」「愛を与えろ」「愛を感じろ」「愛を受け止めろ」「愛を・・・」と、美しいBGMに乗せて、豪語しておられるのか・・・。全く、理解が出来ませんでした。それを聞く群衆も、目をキラキラさせながら、または、時折、涙を浮かべて感動をしているではありませんか・・・。

これらは一見、韓流ドラマを見ている女子の心と眼と同様、または、悲しみ(憂い)からくる母性愛を擬似的に上げられている状態と同様です。

重度に愛に飢えている、深刻なまでに愛情を知らずに育った人には、キッカケとして「愛」を論理的かつ体験的に学ぶ場としては必要なところもあるでしょう。しかし、一般の方々にこういった場や過剰な教義は必要なことなのでしょうか?

もっと言えば、「愛」をそれほどまでに表舞台に出すことが必要なのか?ということです。

冒頭に申し上げましたが、「前提」として、愛はあってしかるべき構えであるということ。だから、これだけ日本語として多彩に、多様に「愛」が取り入れられているのです。これは、要するに「愛」だけでは使い物にならないことを裏付けている証でもあります。だから「愛」の定義は、広義で十分、とらえ方も自由で結構としたいわけです。

「愛」は流れている。

そして、風はいつも吹いている。この捉え方で十分過ぎると思っています。風を日常生活で「あえて感じる」ことをしていますでしょうか?「私は出来ません。」しかし、風が吹いていることを意識すれば、感じることは出来ます。「愛」とはそういうものです。

「風を吹かせ」「風を起こせ」「風を感じろ」「風を与えろ」「風を・・・」

そもそも「ある」ものを、「あえて」取り上げることに違和感を覚えないでしょうか?真冬に扇風機は要らないわけです。余計な風は邪魔になります。そして、風とは「静」でも微かに吹いていることを知ることです。

「愛」は尊いです。

自然は尊いわけです。大地は私らの暮らしを日頃は何の文句も言わず支えて下さっているわけです。人は現実を真剣に生きれば生きるほど「愛」と無縁の世界に浸る感覚になります。当たり前です。こんな時に表舞台に「愛」を持ち出すことは、かえって邪魔、衰退(消滅)を招くことにもなります。

あえて「愛」を持ち出すならば、人生を掛けるほどの相当な覚悟がある場合です。

万策尽き、これ以上ない時に不思議と起こる(起こす)風があります。そんな時に「愛」を察し、こんな時に「愛」を感じ、あんな時に「愛」を頂き、ひょんな時に「愛」を与えることで十分です。

そして、普段は風はいつも吹いている。の認識が肌で分かっていれば良いことですから。ですから、何かをする前提として、構えとしてあることが大事・・・が正解と繰り返し申し上げております。

風をいちいち気にしていては、それはただ単に立ち止っているだけ、進んでいないのと同じことです。

「愛」はどこまでも受け皿(非生産的)なものです。

現実を打ち抜いていくことが、人の運命です。現実を変えたい、現実を豊かにと思うのであれば、「愛」より「情熱」です。一度、愛の熟語を沢山調べてみて下さい。私が述べている意味が少しでも分かって頂けるかと思います。

現実的な「愛」は熟語で点数ありとし、「愛」そのものに点数はないとします。

だって、いつも愛は流れているから。

プロフィール

和泉堂 坂上 透

Author:和泉堂 坂上 透
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