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存在の価値が「運」を繋ぐ。

「貴方を心の底から必要としている人はいますか?」

百花繚乱、開運の手法あれど、その全てを看破する開運の大原則が存在します。

分かっているようで分かっていない。

理解しているようで理解していない。

そう、それは「人」との繋がりです。

場合によっては「人」を介して「物」との繋がりです。

今後の自分の人生は、今やっている事業は、この状況は、いつまで持続するのか?発展するのか?はたまた衰退するのか?誰しも一度や二度は、不安に思ったことがあるのではないでしょうか。こんな時、占いで「現在の運勢」「これからの運勢」を見る人もおられるでしょうし、諸先輩方からの薫陶を頂く人もいるでしょう。

かと言って、不安はなかなか拭い去れるものではありません。信頼出来る人(占い師)に大丈夫と太鼓判を押されたとしても、直面する問題が過酷、重大であるほど、心象は晴れず、不安定で曇り空のまま・・・なんてこと経験ありませんか?

大きな問題ほど小さく扱え、とはよく言ったもので、または、楽観的にとか、人知を尽くして天命を待つとか、果報は寝て待てとかを実践哲学としたいわけですが、言葉に心酔し、気休めの重ね着にならないようにしたいのものです。

さて、この局面において、前記のような気苦労や煩わしさもありながらも、誰でも一目で「行く先の吉凶」を判断出来る方法があります。またそれは、現在の運の在り方も同時に問えるものでもあります。※この場合の運の在り方とは、良し悪し、強弱、これからの造化(創造)運といったものも含みますが、どちらかと言うと、コンクリの筋交い(すじかい)のように、建物(環境)を耐震性を示すものです。

はい、それが冒頭にお投げした質問です。

『貴方を心の底から必要としている人がいますか?』です。

自分はいかように評価されているか分かりません。ましてそれが分かるとするなら、自意識過剰とか、傲慢に繋がるのでは?と思われる方は、今日から少し考え方を改めてみてはいかがでしょうか?会社(事業)で考えれば分かりやすいかもしれません。人材をどこまでも大切にとはよく言われますが、ここに、今回の深い意味、意図があります。最低限の環境と熱(教育)は提供しつつ、社員それぞれの実情に合わせて、自分が出来うる限りの、またさりげない思いやりが働いていれば、この社員にとっては、この会社は無くてはならない、無くなれば全てが崩れてしまう・・・といった「緊張と緩和」が、いつの間にか深い繋がりを形成してくるわけです。このことは、いわゆる執着や依存とは、道義的に別物としたいわけです。この意味は、普段は目に見えないけれど、互いに感謝があるか、ないかの差です。社会は腹六分で結構と雖も、会社を動かしているのは人、人の心です。人の内に、小さくとも手を差し伸べる「暖かさ」はあってほしい。この働きがある環境に長くいると、この社員(人)にとっては、この会社でなければならなくなるわけです。会社は逆にその覚悟も同時に背負うわけですが、実際は与え、与えられが人の繋がり、社員との繋がり、大きく包む「器」でありたいわけです。会社、社員の関係に限らず、家族、人脈の在り方に照らし合わせて、よく考えてみて下さい。

はい、繰り返し申し上げますが、「人との繋がり方」を把握することを、または「そのような関係を作ってきた。」と自信を持つことを自意識過剰や傲慢と思う人は、まだまだ生きることに真剣味が足りないと思います。経営者、リーダー、または人として基準を満たしていない人は、性善説を語り、いつの間にか、理屈で理屈を覆うことになっていることを気を付けたい。

話は核心に迫ります。

ですから、本質的に、心から貴方を必要としてくれる人がいるのか?何人いるのか?が、「運の筋交い」を見ることになります。貴方が崩れれば、この人達も共倒れ、それに、あくまでですが、一般の人が単に会社が倒産する経験にとどまらないのです。例えば、女手一つで、小さい子供が三人いる、とか、必要以上に誰かの世話をしなければならない環境にいるだとか、細かい条件はありますが、今回は割愛させて頂きまして、それら全て「苦行善行」とみなします。逆に、その人だけで生きていく、または、知恵と工夫で共働き、または援助もありながらとか、詰まる所、やる気と考え方次第で、実は普通に何とかなるならば、例え理不尽な経験も運、不運、未熟、自己責任、これも成長の過程とおさめたいところです。

既に苦行善行を積んでいる前向きな人、または、苦行善行を積む意識が芽生えた人がいる会社、そういう人生観を水面下で共有出来ている会社は、

「不思議と守られます。」

百花繚乱の開運方法が全てかかってきても、ビクともしません。正に人壁、人柱と言えます。

「あんたでなけりゃ、私は死んだも同然、お前でなけりゃ、生きている価値もない。」

も近い表現です。さて、この関係、この繋がりの根本にあるのは何でしょう?はい、やはり真剣さです。それも互いに、です。真剣さは情熱でもあります。互いに、が肝で、まず、何もせずに、「互いに」はありえません。かの連合艦隊司令長官 山本五十六の「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみて、 ほめてやらねば人は動かじ。
話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」

のように、真の情熱を共有し、真の人生観を共有するには、並大抵の努力と、並大抵の優しさがないと成しえません。

どこまでも人を大事に、人財育成を、の深い意味や価値をお分かり頂けたでしょうか?人に限らず、必要不可欠、生活必需品も同様。競争原理が働くことで、淘汰される市場原理はあるにしても、その人(お客さん)にとって、無くてはならない商品を出し続ける会社は、まず運の筋交いは強固です。

この先どうなるのか!?

を、まず自己で知るには、周りとの、環境との繋がり方をよく見てみて下さい。

ここで一例を挙げたような「深い繋がり」「無くてはならない繋がり」があれば、あるほど大丈夫です、それこそ先は繋がっていくようになっています。いや、現実的に言うと、繋げていけるだけの道と運がどこかに必ずありますから、諦めず、考えて、知恵も出し、最善を施しながら、悠然と乗り越えて頂きたいと思います。

だから、世の経営者しかり、人しかり、器や人格を仕上げること、利益を超えて力を注ぐ時間や労力を惜しまないことが、運というものとの深い関わり、その大切さを知って頂きたく思います。


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一代の運命を観る。

無相でも、情熱と謙虚さと真心を込めて、まさに「真剣にして柔」をもって観れば、10年先、20年先の生き方、環境の優劣が分かる場合があります。分かります、とは言っても、過ぎてみないと検証のしようがありませんが、其仙流100年の歴史からもそう言えるのです。もう一方では、不思議とそのような確信を持ててしまう無相の玄妙さに恐れ入ります。

「え?では未来は決まっているのか?」と、これまでの和泉堂の主張と相違があるのでは?と思われるでしょうが、10年、20年先となると、何をしている?とか、どんな人といる?とかまでは殆ど分かりません。殆どとは、稀に観えることはあるそうです。極めて確率が高く、ある事柄において、大局的見地でも不動の因果律のみ反応した場合で、またお客様の真剣味と、こちらの真剣味が高いレベルで化学反応を起こさない限り、映像としては観えないようです。そういう観え方は、私は未だ経験はないです。

きめ細かい内容が分かれば、それに越したことはありませんが、10年先の生き様、環境が、陽か陰か?腹で生きているか、上っ面で生きているか?満ち足りた環境か、劣悪な環境か?が分かるだけでも、今の姿を基準にすれば、全てを見通した風に思えてくるのです。

ただし、全員にこの「風」を感じるわけではありません。10年先どころか、来週の動きでさえ曖昧な人(運勢)が、多くいることを留意させてもらいます。

この差は何か?

「一言」で言えば、人格(人間性)の成長度合と、人生への真剣度合です。不思議と今を観た時に「既に風が吹いているかの人物」は、10年先も、人(風圧、風質)によっては、20年先もその風の行方が追えるのです。従って、その風を観ようとすれば、"風には風"で、真剣にして柔、謙虚さの中に情熱、総じて真心をもって観ないと、観られないわけです。

未来は決まってはいません。しかし、人格と情熱が清く、正しく、美しくあれば、描く未来が待っている風に思えてくるし、それは既に手にしているかのように。しかも、このように未来が観える人は、決まって言えることがあります。そう「努力」を惜しまないを当然のように持っているということです。

真に世の中は上手く出来ております。

かと言って、100点の人は誰一人いません。何をもって、清く、正しく、美しくであるか?この風がどこまで繋がるのか?の判断は、その人でも、我々でもなく、これぞ「天の謀」であって、深く感じる、感じさせられる、何故か確信が持てる、持たされるので活断が出来るのです・・・としか言いようがありません。

昔は、大先生の所に鑑定をお願いにあがれば、「一代の運命」をズバズバ言い切られたり、書に起こし、授けられたりといった光景がよくありました。30年経って、本当にその通りになりました、という人、いや、全く違う人生だった、という人、随所は当たっている、という人、それはそれは様々でしょう。稀に神がかった仙人級の占い師は、正に神通力と呼ぶべき能力で、人によっての当たり外れも殆どなく、「一代の運命」の観る迫力を持ち得ながら、流れを、先の未来を、きめ細かく言い当てることも出来ました。(其仙流初代)

あえてですが・・・、例えば、我々の其仙流初代の伝説話を聞けば聞くほど、弟子の弟子の我々は、なんて無力な存在なんだ、と落ち込むこともしばしば・・・、そして同時に、時空の捉え方、いわゆる未来に対する認識について、頭を悩ませる時代が長くありました。人によっての当たり外れが極めて少なく、未来の姿を伝える。予知とか、運勢を観るを超えて、「予言」に近いわけです。当然、人によっては、観えなかったケースはあったとは思います。それにしても、断言する率(頻度)が他を圧倒していたことが驚異的です。

前記しております『未来の姿に確信が持てる条件』の人格と情熱の度合、清き風、互いの真剣味はどこ吹く風・・・、辻褄が合わない部分が出てくるわけです。

昔の人は、それなりに器量、徳量が備わっていたと評したとしても、これだけの密度で断じれるとは到底思えないわけです。

随分長い間、この謎と言うか、差を埋める研究を続けておりました。話を整理すれば、無相の信頼度は、既知の能力を圧倒します。これだけは断言出来ますが、無相においても、相談者が変われば、または質問内容によっては、先々の流れは当然バラツキがありますし、断言しきれない事が大半なのです。従って、人格も相談内容においても、清く、正しく、美しくあれば、断言出来る未来が観える、風の行方を追うことは可能であると。しかし、其仙流初代のように、後者のような条件以外でも断ずる事が可能であった、またそう観えていた事実からの出発で、この差は何か?の研究でもあります。

初代が書き残して下さった秘伝書を読み漁り、先代から聞くエピソードや格言を書き留めていくうちに、ある言葉に改めてフォーカスするようになりました。それは、

即神即相。です。

神は心とも。

この奥義がイマイチ掴めていませんでした。初代は、この即神即相をもって、お客様が座り、相談事を言おうとする瞬間、無言で手を前にし、ピタリとお客様の口を塞いだ後、今日ここに来た理由、置かれている状態、具体的な相談内容をスラスラ話始めるのです。即神即相とは、軽く目をつむり、パッと目を見開いた時に、お客様の相から全てを感じ取る奥義であって、無相の延長でもあり、応用でもあり、最上の無相でもあります。そして、最大のヒントとして伝えられているのは、『真心』がなければ観えない、と教えられてもいました。

とは言うものの、未だに理屈では理解出来ても、だから観えるものでもなく、生涯かけても、初代が体得されていた域までは、まず不可能とも思っています。(諦めではありません。)超えられない壁と言うか、男は女になれないみたいなもので、なりようがない、持ちようがない一種の能力、コツなる感覚器みたいなものです。

ここが分からない限り、予言的指南と、予知的指南の差を埋めることは出来ないかもしれませんが、大きなヒントとして出して頂いてくれております真心。はて、私が捉えている真心とは次元が違うのかもしれません。この真心に深遠な力が働くのか、何かに作用するのか、ここが体得出来れば、幅広い人々に対して、未来を示すことが可能になるのかもしれません。

スピードの向こう側とか、将棋で言う何百通りの手を超える一打とか、通常、私が観念する力で観える因果律を超える、いや、包括した先に現れる骨力あるベクトル(線)が観えてくるのでは?と、想像の域を超えません。

ただ言えることは、初代のような鋭い天才型もございますし、無相を広く人生指南に使えるように仕上げてきた先代も、まろやかな天才型でもあります。感動の幅、刺激の度合はお客様に任せるとして、本質に迫れば、どちらも同等の腕前であり、価値も差はございません。ですから、我々も先代のまろやかな見方を自信を持って継承しております。

単に無相の見方の違いから生じる観え方や、表現の差であって、お客様の目指すゴールは、初代の見方であっても、我々の見方であっても同様なのです。しかし、三代目として、先代の無相の域と人格をしっかり体得しながらも、初代の即神即相の奥義を、不可能承知でもいずれ片鱗だけでも使えるようになりたいと思っています。

はい、ずばり『一代の運命』を観ることにおいては、条件しかり、高いレベルの複合的な能力を有することが求められるものであることはご理解頂けたでしょうか?

いずれにしても、未来の運勢は、短期で見直し、軌道修正していくものでありたいし、現にこれが正しい運勢学の捉え方です。よしんば予言的だとしても、それは、大概がある面(事柄)においての超因果律ですから、それ以外の道や事柄は、自由でまた曖昧なところも多分にあります。だから、いずれにしても、です。

一代の運命とは言わないでも、そのぐらい迫力がある未来像の幾つかを知りたいお客様が多いわけです。私とて10年先、20年先の姿を観さして頂くこともやぶさかではございません。しかし、運命とはこれだけ深い仕組みがあり、そこに節度があり、そして類稀な能力の有無も絡みあって、大前提に互いの覚悟と真剣味があって、はじめて成立する、断ずる事を許される鑑定だということをご理解頂ければ幸いです。その上で、自分らしい人生とは何か?を探す旅路において、自分らしい人生設計図を作ってみて下さい。

一代の運命も一日にしてならず、今を繋げて大輪となる。









学ぶ姿勢が運命を分ける!?

毎日、色々なお客様を観させて頂いておりますが、つくづく思うことがあります。

何度も、何度もブログ等々で苦言を呈しておりますが、

① 聞きたいことが然程ない。

② 単なる我儘の悩み。

③ 学ぶ姿勢がない。

このようなお客様が多いこと。

はっきり言って、こういったお客様は見えにくいのです。私どもは、お客様の未来に向けての開運をお手伝いさせて頂く仕事です。この鉄則から一ミリも動くことがありません。未来は「今ここ」の繋がりであり、「今ここ」が空虚の方を、どう見たって、0は0。

指南業は「説教」と異名がつくほどに、お客様のリスクを和らげるには、苦言、すなわち説教は大なり小なりあります。

特に、前記の①②③に当てはまるお客様には、ただの説教になってしまいます。当たり前です、元々何にもない、深刻そうに見えてただの我儘な質問ですから、その相談自体に答えはない、方向性もないわけです。だからと言っては何ですが、まして指南業であるからこそ、このお客様の人生観や人格の見直しが話題の核となります。私らが伝える言葉の意味や価値が、分かる、分からないは、手を替え品を替え、最後まで粘りつつも、最終的には、将来の宿題のように投げておくことしかないのです。そして、悲しいことに①〜③に当てはまる方の80%が、やはりそれだけの器や人間力の持ち主です、はい・・ただ、残りの20%は、初見からの私のミス、見当違いもありますが、殆どが伝え方(言葉のチョイス)で、意を捉えない内容をポロっと先走ることも確かにあります。大体は途中で気付き、後手後手ながら、しどろもどろで訂正を加え、何とか締めくくりますけれど・・・(反省)

それもこれも、お客様自体や、質問自体に軸がブレブレ、軸さえない事が苦労させられる最大の要因です。デビュー当時は、これも勉強、私の腕の無さ、とか言い聞かせながら、挫けながら前向きに考えていましたが、これも経験でしょうか・・

「はっきり言いまして、困るだけです。」

事件(相談)の内容もよく分からないし、観えないし、見つけられないし、かと言って、アドバイスや説教も聞く気はないし、どこかで揚げ足とるわ、何の期待か、浅はかに試すわ、学ぶ力がないわ・・・では何ともなりません。

その間違った認識を貫き通されたかったら、他の当てものビンゴゲーム占いや占い師へどうぞ・・と、毎度言いたくなります。自分の都合に合った占い方式や答えを求めるのは、まさに占い現代病。これは、占い師側、メディア側の責任が重いですが、昔は、街頭易者も「街の占い先生」として、拝聴させて頂くといった尊敬の念で接したものです。また、お客様も一応の道徳観を持った人が多かったことから、大変失礼ながら、お客様側の器量、徳量が史上稀にみるほどに減退していることも引き金になっているようです。

余談ですが、素人占い師やわきまえがない癒し系やスピリチュアル系の方々には、この煩わしさや苦悩が、深部で分からないのではないかと思います。このことは、まさにプロ中のプロの現場意識です。守護霊やら前世やら過去のあれこれや、愛、絆、エネルギーのワードを使いこなし、楽してお客さんを喜ばしたり、泣かせたり、一喜一憂パフォーマンスや、ましてカウンセリングとも違うわけです。造作もなく、太鼓を持つわけでもなく、現実問題の真剣勝負で取り組むからこそ、この占い現代病に人一倍、苦悩するわけです。

その変わりと言っては何ですが、人生に、現実に、仕事に、家庭に、どこかしら真剣味がある人は、質問の仕方から、学ぶ姿勢に味があります。こういったお客様は占いを超えて、運勢学を味方につけるコツを身につけます。例え、三日坊主であっても、結果がふるわなくても、まさに「起き上がり小法師」幾度となく見直し、また教えを乞い、人の在り方、運の在り方をその人なりの器とペースで作り上げていかれます。

指南者とお客様のあるべき姿は、まさにこの関係で、「仕事冥利に尽きる」ことを何度も経験させて頂き、逆にお客様に感謝です。我々の仕事は、どこかサービス業でありながら、サービス業ではございません。サービス業に徹するのは、かえって商品力(開運指南)を劣化させるからです。教師と生徒の関係と同様に捉えて頂ければ幸いです。占い屋と教師とは、意味も価値も違う、ビジネスにするのは傲慢で、人を想うなら無償で貢献せよ、と言う人も稀にいます。金銭を受け取らない占い師や、過去にも易聖と呼ばれた先生もいらっしゃいました。それが正しいとか、正しくないとかではなく、あえて、お金がいらない環境であるから、受け取らなかったに過ぎません。また、我々の仕事は、本質的に申し上げれば、お客様の上にあるわけではございません。お客様の杖のような存在でもあり、お客様主導で成り立つ仕事です。主導とは、言いなり的とは違います。「お尋ねに素直にお返しする。」ということが大前提の姿勢で、仕事です。

今回の命題は、お尋ねがないお客様に対するもので、お返しのしようがない苦悩を述べておりますことを、少しご理解頂けたでしょうか?

も一つ言えば、お金を頂戴するからこそ、プロでなければならない。プロである所以を、根拠を示すためにも、腕を磨き、真理を追及し続けなければなりません。それもこれも、お客様からの人生ど真ん中のお尋ねに対して、生きた言葉をお返しできることに全てを賭けているからです。

説教と申し上げましたが、学ぶ姿勢がある人は、そのお尋ね(質問)自体が既に、お説教を乞うものになっています。その謙虚で、美しい質問をなさるものですから、私らも自然と、素敵な言葉をチョイスしながらのお説教に・・・なっています、はい。

ここまでのお話を目にして、そんな占い師側の都合に合わしてられるか!と内心思われる方は、どうぞ他をご利用下さい。

私らが申し上げておりますことは、極めて常識的なことであり、開運に導く仕事ならば、これらを空で言える、誰もが当たり前に持っている心得でもあります。

信じたくないけれど・・・現実問題として、お客様や更には占い師までもが、これらの事を、硬いだの、古いだの、上から目線だの、面倒くさいだの思われる方がいらっしゃることが残念でなりませんし、時代を憂うばかりです。

水鏡庵ブログ、ないし、私のブログでも時折、言及させてもらっていますが、昨今の非現実な身勝手な癒し系、思想系、スピリチュアル系の拡大や、加えてメディアの間違った認識の提供、更には、近年の内外における教育問題の二重苦、三重苦が、運勢学本来の高潔さ、正しさを失ってしまっている要因です。

世の中を牽引している人間は、本当にごく僅かな超一流、特級のリーダーであることは、今も昔も変わらないわけで、不動の理です。そうは言っても、それぞれが、それぞれに、それぞれの幸せや豊かを掴むには、それなりに求められる一級品(ダイヤモンド)が、またはその片鱗が不可欠であることを、自由、平等を叫ぶ前に一度、ある意味での危機感をもって、真剣に見つめて頂きたいテーマでもございます。




成功に法則なし。継続に法則あり。

成功体験がある殆どの方が、肌で感じているある意味での原理原則ではないでしょうか。人の夢は様々、人の目標も様々、何をもって成功か、実現かは、天地裁量をもって自由としたいところです。世のため、人のためとなる志と具現化した事業、行いに重きを置くことが天の道と雖も、人に過程あり、時代時代の喜悦を感じることも、また人の道とする幅(余白)もありたい。初年、中年、晩年における小輪、中輪、大輪の華を、どう評価するかは、世間様に問われ、天に問われ、正否は自らの気付きに託したいけれど、一方で、自修の高みを臨み、徳量満ちるまで何も動かずは、真剣であって真剣に非ずになっていることも考えたい。いずれにしても、小善、中善、大善のいずれかに生きる、「ひとまずの情熱」さえ無き者には、運の助けも、成長のプログラムも働かないことを肝に銘じたい。

さて、これら裾野の広い人生観を認めた上で、また多角的な解釈での成功を意味付けした場合、「成功には法則があるのか?」ですが・・・、はい、結論的に申し上げれば法則はありません。

厳密に言うと、成功には前提として、一定の条件は不可欠ですが、やる気があれば、誰しもが用意出来る範疇であり、それらは大した事ではありません。

成功のキッカケ、ここが運命の分かれ道、ターニングポイントとはよく言ったもので、表向きとは裏腹に、真実は?となると、十人聞けば十人十色、国、人種、文化、宗教の差ほどにバラバラです。成功までのプロセスは、見たまま聞いたまま、見様見真似で幾月は実践したり、いわゆる成功哲学を遵守してきた末に掴んだものであることは、紛れもない事実であるものの、=成功の法則と高を括るほど、これらの行(プロセス)に絶対的な信頼度があるのですか?と問われれば、デリケートな内容ではありますが「物言い」をつけたい。

成功を掴む過程にある人に対して、オーソドックスでもありながら、先人達の知恵は足るほどに採用し実践すべし、は当然とさせて頂きながらも、だから成功する、でなければ失敗するとした決めつけ、呪縛からの解放のパワーを、誤解がないようにお願いしながらも・・・知って頂きたく存じます。

『成功の法則は詰まる所、何でも有り』

であると、現実(事実)はそうなっているようです。成功者によっては、それが恥部ともとれるエピソードであったり、軽々しい仕掛けがたまたま、ひょんな事から、予期せぬ死角から、出会い頭で急に、奥の手で・・等々、表向きの史実には出ないエピソードは、必ずと言っていいほど「ある」ものです。とは言うものの、ひとまずの礼儀作法を務めた上での自由法則でとしたいわけで、重ねて誤解がないようにお願いします。

ここで、取り上げたいメッセージは、成功までのプロセスを型にはめすぎないように、です。どこか評価評論に終始する人ほど、機会を失い、作れず終いになりがちになりますよ、という実践者からの裏メッセージ、警鐘であるという捉え方でお願いします。

はい、このことを豪快に表現すれば、型をはずせ、成功には法則などない、売れているビジネス書や、お偉いさんが書いた成功哲学、成功法則通りにやっても成功しない、それより運を掴め、奇抜な知恵を絞り出せ、当たって砕けろ、粗骨気にせず、情熱で突っ切れ!ということになりましょうか・・・。

さてさて・・・とは言うものの、私が本文面の至るところで、デリケートなこととか、誤解がないようにとか、留意しながら、お伺いをたてるように話を進めてきた理由は、次の次元の法則に上手く繋げたい為でした。次の次元、つまり、成功した事業、行を更に発展、継続させられるかどうか?が、後に控えているからです。

はい、つまりここからが、原理原則と法則が、逃れることの出来ない運命であり、鉄壁にもなり、超えられるかどうかの正に事実上の本番となるからです。

極論言えば、成功までは法則はない。けれど、その後は、法則に忠実でなければならないわけです。

ですから、デリケートなお話であるとしたわけです。

後の法則とは、平たく申し上げれば、「最後にはその人の人格が問われる。」ということです。仕上がっていないまま成功してしまい、後追いの微調整、成長がストップするようなら、世間様は、いや、天さえも、無常に厳しく、じわりじわりと未熟な部分、未完成な部分を狙ってひび割れを起こし、ある時崩壊させられます。

先の十年、いや二十年を見越した準備を、清貧の時期を設けるか、見切り発車でも、後の人格(=理念)の地固めに覚悟を決めきるか、刹那の喜悦を求めるか、こればかりは、実際問題としてですが、自分以外で誰も強制出来るものではありません。唯一、自覚をもって関与出来るとするならば、我々のような指南者でしょう。

極論を言えば、ここに的確な答えはないようにも思いますし、現代人の器量、徳量、社会構造から推測するに、動きだしたものを、熱く動きだそうとしたものを、そうやすやすと止められるものでもないでしょうし、スポーツ大会の入場行進のように、正確にコントロール出来るものでもありません。

細かく、隅から隅までの理屈を長々と述べておりますが、この段にきて改めて通じるのではないかと思う「諺」のようなものでして、『成功には法則なし、継続には法則あり』は、事実上は幅が広く、多くの選択肢で埋めることも、自由な取捨選択が可能で、独色領分をもった連立方程式です。

極めつけは、最後には人格が問われる。という最大の原理原則、法則さえ肝に銘じているならば、ひとまず十分としたい。どこか慈愛に似た心持ちで、時に一緒に時流に乗りながら、また見守りながら、次なる手も見越しながら、方やで清貧の時期を一緒に過ごしながら、千差万別のお客様の一挙手一投足に、運勢に、「真剣にして柔」の修業でもあるのが、我々占い師(指南者)の宿命でもと締めくくりたいと思います。

其仙流『占法・哲学』は系譜あり。

ぜひ、ご理解を賜りたいことがあります。我々が秘伝公開しております。人相での無相。瞑想法での無相および、手相における動的見方『水鏡法』は、先先代が苦心研究の末、体系化した奥義でございます。

時に、イノベーションであるが故に、オリジナルもオリジナルで、勝手解釈で作り上げてきた内容と思われることがあります。以前より申し上げております『本物は例外なく師がいる』わけでして、無相や水鏡法にも、『師なる源』がございます。

ニュートン力学からアインシュタインから現代物理学。

この系譜と同様に、我々の技法や論も裏付けされて辿ってきた歴史がございます。

決して、「火のないところには煙は立たない。」ように、無から有を生み出す迫力はあっても、荒唐無稽な着想、開発ではございません。


無相も水鏡法においても、ブログにて、何度も、何度も、登場しております麻衣仙人の「麻衣相法」より着想し、開発してきた技法です。

そして、麻衣相学で一般的に有名な「神相全編」ではなく、神異賦(しんいふ)と麻衣相法の原書よりヒントを得て、飛躍、発展させてきたものです。麻衣相法の序文には、「レベルの低い者には教えるな。」と書いています。凡人には、理解し難い内容でもあり、まして、核心を掴めずに、世のため、人のため、有益に使いこなせないとし、通俗的に汎用する技法ではない。としておりまして、「識者で人格の高い者が修めよ。」としておりました。

麻衣相法の一文一節は、見事なまでに完成されたもので、そのまま翻訳するには、浅薄としたい内容も至る所にございます。

「凡人に読み与えるな。」の意味がそのまま一文一節の迫力となって裏付けされているような気がします。本質に迫れば、たまに同業者より、「どこにその、おたくらが言う無相の見方のヒント、密語が書いてあるの?探しても見当たらない。」と指摘されます。まず大前提に、神異賦、麻衣相法の後に世に出された「神相全編」は、この一文一節の迫力、そして、一文一節に隠された密語の部分が入っておらず、抜いておりますので、麻衣相学と雖も、神相全編は別格扱いをさせて頂いております。従って、神相全編のみをいくら探しても、閃きには至りません。

無相のヒントが書かれているのは、神異賦と麻衣相法です。

この根拠「一文一節」は、ホームページや自主制作本でしっかり取り上げて、密語を抽出し、無相への着想と根拠を示しております。また、その他についてもしっかり勉強させて頂いておりまして、既存の現代語訳版麻衣相法のように、単に直訳したままでは「等価にはならない」ものが多くありますので、麻衣先生の意図を深く掘り下げて、解説もしております。

ですから、我々の技法や論に根拠がないなどと言う方々がいらっしゃるとすれば、麻衣先生がはじめから言っておりますように

「凡人には分からない。」

に、より謙虚な姿勢で考えて頂きたいと思います。

観相学、人相、手相の源流は沢山ございます。現代人の多くは、今風の書籍、メディアなどからしか情報が入らず、例えば、占い教室などに参加される方々も、まぁ、、ミーハー要素は百歩譲ったとしても、何がどの系譜で、源流で、一流、二流、三流とする定義も知らないままの人が100%だと思います。

まして、提供側も正しい歴史認識や、源流をよく理解していなくて、自分の信じる占法や、やり方について、なんと言いますか、全体の中の立ち位置と言うか、この占法は、やり方は、いったい何物なのか?といった棲み分けも、明解なプロフィールさえよく分かっていない人(占い師)が沢山います。

本来は全体を知り、今の取り扱ってる占法の立ち位置を知り、運勢学に、そしてお客様の相談に、「ど真剣」に向き合えば、向き合うほど、必ず・・・

超えようにも超えられない壁、限界が生まれてくるはずです。

いやいや、私の運勢学には限界がないと言う人は、紛れもなく神の域、1000年に一人の天才です。

余談ですが、私もまだ、この無相や其仙流の哲学(運勢学)に出会う前、のらりくらりとは雖も、真剣にお金も頂きながら副業で占い師をしていた頃です。

運勢学への壁。

事実、この壁、この限界にぶち当たり、このまま信じている占法ややり方だけで続けていけば、必ず・・


「騙し騙しの自分がいる。」

「上手く帳尻を合わせる自分がいる。」

と思いました。方便と「騙し」は、当然ながら違います。いくら、この既存の占法を極めても、他と重ねて併用しても、超えられない壁、限界を処理するには、自分にも、お客様にも「悪意のない騙し」を貫く必要がある、と無情なまでに言い聞かせていました。

私は当時・・まぁ、今思えばですが、真の運勢学からすれば、枝葉、脱線話になる「当たる、当たらない」程度でこのまま道を進むか、お客様の人生ど真ん中に、生き生きとした指南が出来る占い師を目指すために、真の運勢学を学び、それ相応の「技法」と「哲学」を体得するか?の選択を迫られていたのだと思います。

そこで運命的に出会った、いや、既に出会っていたのが、其仙庵(其仙流)。私の師匠です。

時折とは言え、騙し、騙しをし続けることは、私の良心が許せません。かといって、今までの知識、見識、今までの全てを一旦、0にする勇気や、肝を言えば、プライドが邪魔をしました。それだけ、其仙流の持つ技法と哲学の迫力が凄まじいものだと当初から感じていたからです。

まぁ、しかし・・・今考えたら、後からなんぼでも、いかようにも修正が効くと言いますか、これまでやってきたやり方や技法は引っ付けられるし、逆に冴えが増すぐらいなわけですが・・・当時は、その全てを「捨てる」覚悟がいりましたし、ありましたね。

但し、今までの技法ややり方は、後から足し算にも掛け算にも出来ますが、こと運勢学に対する既知の捉え方、考え方は、後にも先にも通用しませんでした。

そりゃ、そうです(笑)。超えられない壁を解決してくれる学びと技法を授かるわけですから、今までの概念が一瞬で吹っ飛びました。

この世の中の全てを包括するほどの運勢学、技法でありながらも、どこまでも進化です。まだまだ、至らない点、未知なる点、伸ばしていける点はございます。

『ここから全ての進化発展を始めたい』

1500年も前に、麻衣先生はこの運勢学の概念、技法を持ち得ていたことを考えると、ただただ、畏敬の念を持つばかりです。私達が、この1500年もの間、くすぶり続けている運勢学に対して、今まさに、1500年の時を経て、麻衣先生の意図する思いを再認識し、現代に投げかけている『真剣勝負』の問題提起です。

ここの基準から始まりたい!

この基準から更に作っていきたい!


占い師全ての皆様に対するメッセージです。運勢学に、お客様に、人生に、真剣に、熱く、真にお役に立つことを考えれば考えるほど、願えば願うほど、

超え難い『壁』は、ありませんか?

『壁』を認識されている中で、お客様と向き合うことは、勇気を持って、いずれかの時点で改め、我を捨て、世を広く、深く見てみて下さい。あなた様に良心があるならば、あなた様が求める答えはございます。持っております。和泉堂が真摯に謙虚にお伝えさせて頂きます。

互いの良心が通じ合えば、上も下もございません。

全ては、お客様のため、運勢学、占い業界の真の繁栄のためです。

それでも、「いやいや私の運勢学に壁はない。」と仰られる人がおられましたら、自薦他薦問わず、その根拠をぜひ和泉堂までご連絡を頂きたく存じます。

決して、皮肉ではございません。

我々が、現時点で上質、本物と認識しております無相や水鏡法、強いては開運方位学『和気修方』の技法、哲学を超えるものがあるならば、本心から知りたい、勉強したい思いです。

何年後にこの真実が表舞台に出るのかまでは、無相をもってしても定かではございません。運とは、私達の人格や、準備も大きく作用するわけですから、日々研鑽ですし、自分の人間性の未熟さに呆れるほど反省も致すこともございます(苦笑)

そんな中でもただ、一つだけ・・ただ一つだけ確信を持って言えることがございます。既に何度もお尋ねをし、天にもお墨付きを頂いていることでもあります。

そうこの「無相」「水鏡法」そして「和気修方」は、『本物』であることです。


和泉堂


平和の代償。

世界中探しても、日本ほど均衡の取れた平和な国はございません。

宗教の自由、言論の自由、憲法に生存権まで定められているわけで、生きる力と知恵、多少の人徳さえ失わなければ、路上で野垂れ死ぬこともないのです。と雖も、大半の国民が労働意欲を失わず、人としての在り方を遵守する民族性を持っています。格式高い国でもありながらも、そこに自由と平等が自然体で存在している我が国を一国民として誇りに思います。

さて、話は飛びますが、京都のイメージは皆さんどうお持ちでしょうか?例えば、日常生活では朝食は何を食べているイメージがありますか?あくまでイメージで。

和食メインで、お漬物は欠くことがないとか?どこか古都の慣習、風習が日常的に行われているイメージがあるわけですが、府民の圧倒的多数がパン食です。菓子パンしかり・・・。このように、時代と共に変化を遂げるもの、淘汰されるもの、伝統的に残るものがありますが、そこに普遍的なもの、変えてはならぬ、無くしてはならぬものがあります。これから何百年経とうが、普遍の価値観というものを強く認識しておかなければなりません。普遍的とは、すなわち原理原則、曲がるものでも、曲げられるものでもないわけです。

さて、ここからが本題ですが、冒頭で述べた元来の日本人の在り方と、現代の日本人の在り方に「慣習の変化です。」では収まりがきかないほどの根本的なズレと、無造作な価値観が広がり続けていることに、危惧を超えて、このままでは取り返しがつかなくなる、正にその一歩手前の危機感を持っています。

非常識は常識がある人間が成せる離れ業。と同様に、原理原則に則った上での「革新」であって、つまりイノベーションなわけです。

我々の業界は特に、と言えますが、その他類似する新興コーチング系に集う一部の人達や、反社会活動をされている一部の人達を見ていますと、「原理原則」を曲げている、無視しているとしか思えないような思想、主張、価値観をお持ちの人がここ十数年で爆発的に多くなったように思います。一昔前なら、「変人」扱いされるような人達ですが、現代は・・・私は本当に都合の良い言葉だと思いますが、コミュニティ化とか、シェアするだとか、あたかも権利が守られているかのような風潮が一般化され、それぞれの居場所で夢見る夢子ちゃん同士の体のさすり合いをしています。

これを、平和ボケの副産物。平和の代償と、私は呼んでいます。

『革命と維新』

世界広しと雖も、有史以来、日本国だけが、革命と無縁の国家であるのは周知の事実です。明治維新も、明治革命ではございません。

日本国は、2600年以上原理原則を曲げず、根強くあり続けてきたからこそ、日本人としての格式、品格が守られてきたとも言えます。この土台にあって、それぞれ単位において改革、革命はあるわけです。繰り返しますが、国として、革命は実質上存在しません。すなわち、日本人のアイデンティティの根幹(和の精神)に革命はなかったということです。このことからも、会社、組織、地域単位で、革命を起こせたとしても、根幹(原理原則)を曲げる革命は、その後が続かないことが多々あります。それだけ日本人のDNAは冒し難い原理原則が働いているように思いますし、無くしちゃならない魂でもあるように思います。

であるにも関わらず、近代の平和ボケの副産物団体(人達)は、受け継がれてきた魂を否定、つまり革命を謳います。例えば、正しい思想とは何か?の定義は、非常に難しいのわけですが、はっきり言えることは、思想そのものは、実社会では通用しないということです。いや、距離を置かれるが正しいでしょうか?

この事は、現代の社会問題として真剣に取り上げなければならないとさえ思います。

この時代に、この国に産まれてきた以上、従うべきところを従わず、原理原則に背くことは、「不要の産物」としてみなされます。たった一度の人生、不要の価値観で、井の中の蛙でいたいでしょうか?10年、20年、不要な学び、経験をしたいでしょうか?1000年後に、そのいずれかの思想や価値観がこの国の、いや世界の根幹、原理原則になりうるかもしれませんが、夢のまた夢の話は、正に不要で、不毛を認識すべしです。

これだけ、あらゆる思想や価値観が至る所で爆発的に増殖しても、この国を、社会を牽引している人は確かにいるわけで、それも、ごく一握りの超一流の人物です。実際は、あらゆる国民がこのでっかい徳の手のひらの上で生かしてもらってわけですが、その事の一ミリも気付かぬままの迷人が山ほどいます。

だから、何度も言いますが、平和ボケです。

前回も述べましたが、「愛」は実社会では微力なり。です。それなのに、人間学を教える立場の人が、何でも愛に繋げる傾向がございます。まして、豊かな国だけです「愛」をこれほどに語るのは、本来なら「愛」そのものの力が、実質として必要とされるのは貧しい国、地域です。

愛も、時と場所と場合によっては、正に砂漠に水の関係であり、命を癒す不可欠な価値となります。愛の定義は前回述べた通りでありますので割愛しますが、国土が豊潤な先進国で、まだ言いますか?必要以上の資源は害にもなることを知って下さい。

愛が害になるとは、荒唐無稽の狂言か?と思われるでしょうが、はっきり申し上げておきます。実社会における造化論で言えば、愛そのものの力や役割は脆弱です。

はい、このことからも、やはり平和ボケの代償と苦言を呈したいわけです。

階段には、0階があることをお忘れなく、0階を飛ばして、いきなり一階、二階からスタートとは現代風で、系譜、大元「源」の0階を踏んで、初めて一階、二階と。けれども、実質は踏まずとも0階があるわけですから、本来は自動的であって、この上に立っていることをより認識するだけでも随分違いますね。

余談ですが、随分昔に、議論より対話だとか、善悪に偏らないとか、思想を展開している方達と話す機会がありまして、あまりに憤りを覚えましたもので、あえてこう詰めました。

向かいにいた女性に対して、「一目惚れしました、まぁ、でも結婚までは考えれないけど、割り切りもありながら、しばらく僕と付き合って下さい。」

向こうはあっけにとられてましたが、すかさず私は、「は?と思ったでしょ。嫌だと思ったか、考えようによっては有りかもとでも思いました?(皮肉)で、答えは?Yes、No?」

前にいた男性に、「金貸してくれ。明日必ず返すから。はい、どうですか?貸してくれますか?貸してくれませんか?死にそうなくらい困ってます。」


はい・・・、私は何が言いたかったと申しますと、世の中の大半が本音と建前の交錯であって、時に裏腹な心理を突かれる詰問、事態に見舞われるわけです。

あなた達は、これらをどう処理するのですか?または、内心どう思ったのですか?

私らは、こんな事態にならない、そんな人間関係にはならない、と思い込んでる人ばかりです。

違いますよ、距離を完全に置かれているか、仮面のまま、同様の意図があって近づいてきていることに気付いてないか、気付かぬふり、演技をしているかしかありません。

不要の人間学、不毛な人間学を学べは、いつの間にか実態のない世界にいてしまっていることを、勇気を出して向き合ってみてほしいと思います。

平和を願うならば、平和ボケからの脱却をまずは・・・。

占いは「断定」すべきか?

「後、3カ月以内に、小さな会社を切り盛りしている社長と出会って、年内に結婚するわ。」


「大丈夫、必ず上手くいくわ。」


「これは、駄目男、今すぐ離婚しなさい。」


はい、極々一例を挙げましたが、これらを断定的占いと呼びます。

人気の占い師は、大体がこの断定的な占いをしているのではないでしょうか?お客様は、参考にするしないは別にして、出来るなら、はっきりと道を示してもらえることを望んでいます。

しかし、ニーズとは対照的に私の経験上、甘く見積もっても「断定」出来る相談が圧倒的に少ないです。

逆に言えば、人気の占い師は、何故、そこまで断定出来るのか?理解に苦しみます。

では、何故断定出来ないのかを、和泉堂としてのケースを紹介してみたいと思います。

① 人生は、人は複雑怪奇、可能性が50%、揺れる流れが観えた場合。

② 志あれど、お客様の設定、準備が不十分(未熟)は、どこまでも不十分の因果律が観えた場合。

③ お客様の願望、欲求を超える視点と飛躍。つまり、良し悪しを超える見方、学びが必要と観えた場合。

④ その流れの質を問えば、あえて伏せる、軌道修正が必要と観えた場合。

⑤ 運の助けが往々にして必要と観えた場合。



では、あえてですが、バランスの為に「断定できる」事柄を挙げておきます。


① 設定、準備、人間力が基準を満たしている、またはそう観えた場合。

② 因果律が一方向しか向かない、またはそう観えた場合。

③ 断定が追い風になることで、より正しさを増す、努力を怠らない、またはそう観えた場合。

④ お客様の動機、良し悪しのみの判断をしても、道理に反しない、またはそう観えた場合。

⑤ 運の加勢が著しく顕著、またはそう観えた場合。

です。

つまり、毎度とは言わずとも、高い確率で「断定」する占い師は、少なくとも和泉堂が条件とする上記5項目のいずれかをクリアしていると認識するわけですが・・・、それほど成熟した人、相談ばかりとは羨ましい・・・さぞ、見応えがあることでしょうね・・・。

はい、えー、皮肉はこれくらいにしておきましょう。我々が考える運勢学とは、「断定出来ない。」ではなくて、「断定出来るものでもない。」もあり、「断定するものではない。」があります。つまり、運勢学、人間学を高いレベルで学べば学ぶほど、当たる、当たらないを超えた見方が体に染み付いてくるようになります。

【人それぞれに合わした運勢の見方が出来るようになる。】は、プロならば、最低限、このことを前提としたいわけですが、もう一歩踏み込んで、「学び」「成長」を具備した見方が出来て、上質としたいところでございます。

更に、ここで初めて、当たるを超える。となります。単なる占いから、価値ある占い、そして、「指南」へと繋がるのです。もう少し分かりやすく言いますと、芸事の世界で言えば、師弟関係と似ています。優れた師は、弟子の長所欠点、悩みを含む「成長過程」を手に取るように理解しております。その上で、あえて経験させ、あえて小出しに振る舞い、見守りながら、一流の芸人に仕上げていくものです。

この過程の中に、エピソードとして、良し悪し関わらず「断定」出来る流れはあっても、殆どの事が断定出来るものではなくて、修業中の身・・・学び、成長を具備すれば、断定出来るもんじゃない、「あえて断定することなかれ。」もあるのではないでしょうか?

このことは、師が描く弟子のあるべき姿が明快であるからこそ成せる技です。

我々の指南業で、対お客様においては、その人のあるべき姿は、その人にとってのお手本、参考書には当てはまりようのない唯一無二のお手本と見立てて、今と少し先の流れを噛み合わせていくわけです。

従って、無相で天に行く先を尋ねているとは言っても、我々に高いレベルの人間性が備わっていないと、無駄と思えるような経験をそのまま無駄に終わらせ、価値判断がない因果律に従い、間違った軌道を推し進めることになります。すなわち、「刹那の快感のループ」に入るだけで、本来のあるべき姿に気付くことすら出来ない状態を重ねていってしまいます。総じて、占い師もお客さんも「青写真・デザイン」を持てていないことの顕れでもあります。

だからこそ、己に、道に謙虚になればなるほど、また、青写真が明快であればあるほど、

「断定出来るものではないし、するものではない。」が、今を真剣に、真摯に観ようとすればするほどに際立つものがあるのです。


はい、ですから「断定出来る。」には、占い師にも、お客様にも相当な「重み」がいるという事です。

初見の場合を条件として・・・、

「余暇的運勢である。」場合、または、「方便」として、断定したことはあっても、「重みを持った断定」をしたことは、数%もないと思います。

格好良い言い方をさせて頂ければ、それだけ人世に対して、運勢学に対して、真剣である証なのかもしれません。

あ、えー、はい、すいません。毎度上からの物言いで・・・お粗末様です。

諦めない運勢学

「成功の秘訣は?」

あきらめないこと。

価値ある成功を収めた人物、経営者が例外なく言う格言の一つです。

小学生の頃くらいからでしょうか?「あきらめるな」という言葉、大人になるにつれ、言い訳の能力が高くなるにつれ、この言葉が持つ言霊を素直に実践出来なくなってしまいます。

本物を目指す人、本物に取り組んでいる人なら、なおさら「あきらめない」の極意を知って頂きたく存じます。

裏返しになりますが、価値が薄いものは、いくらやっても薄い。あきらめることが、最善最良の道となることもありますから、見極めもまた人の器と。

しかしながら、何が価値が高いかは、その人の志にかかってくるわけです。言わば、限定することは難しいのですが、価値の軸をそれに置いた時、取り巻く環境や描いた環境が駒のように回るならば、本質を突いているとしたいですし、フィギュアスケートのように、自分しか回らなければ本質を考えたいところです。

話は戻りまして、環境が広がる、豊かになることを成功とする人物は、新しいものを造るといった上質の概念を持っています。正に無から有を生み出す知恵の連続です。それは、それは、想像を絶する忍耐と挫折を幾度となく繰り返すわけですから、閃く人は1000人いて、行動に移す人は10人いて、やり始める人は3人になり、更に成功まで続ける人は・・です。

大体は一回ないし、二回の挫折、壁で凹むわけです。ここで初めて、己の身の丈を、自分の器を知ることになるのです。それがリスクを抱えている事なら尚更で、気が気でない状態になるでしょう。ただし、無情なまでに、運勢としても、現実としても、実はここからが、本当の勝負、本当のスタートなのです。

確かに運が味方せず、この時点で断念せざるを得無い人もいるでしょう。しかし、前述の話ではないですが、より本物を目指している、本物に取り組んでいるならば、どんなあぜ道でも、道は必ずある。または、次は運を味方にして、再起する道は必ず繋がっていることは、断言させて頂きます。

そうなれば、残すは「知恵と忍耐」のチキンレースです。

新しい上質の環境を生み出す成功哲学には、冒し難い原理原則が働いています。

それは、「全ての準備がお釣りが来るほどに仕上げて、そして天命を待つ。」です。

いくら本物を目指していても、人、物、サービスの準備が整ってないところには、まず飛躍する出会い、チャンスは訪れません。準備があらかた仕上がってきたと確信を覚えても、「時」だけは、無情なまでに通じ合えないものでもあります。

これは、多くの成功者が口にする感想ですが、これで良いと思っていたことが、やはり足りていなかった、真に理解していなかった・・・と。

「時が来る」は、生半可ではないということ。また、それだけに、厳しい試練を課せられるのも最後の審判とでも言いましょうか・・・確かにありますね。

また、少し主旨がズレますが、この全てに寄り添うものが、「運」となります。運の有る無しは、この全ての潤滑油になることをお忘れなく。この概念は、べったり現実に寄り添うものでありながらも、手段として少し切り離して、それぞれに考え、それぞれに取り入れてみて下さい。

結果的に、「あきらめない」という信念は、成功哲学の絶対条件であり、「これが秘訣です。」とは本当に完成された、全てを包括した名言と思いますね。

それも、これを成し遂げた人しか分からない人生の極意でもあるでしょう。

つまりは、運勢学の極意もここにあるような気が致します。

「あきらめたら、そこで全てが終わる。あきらめなければ、必ず道は繋がる。」

でしょう。


貴方が今、造ろうとしている道。

貴方が今、血眼になってもがき苦しんでいる道。

貴方が今、あと一歩のところで躓いてしまっている道。


今一度、天にお尋ねしてみて下さい。

正しい道ですか?価値がある道ですか?人を社会を豊かにする道ですか?これで心から喜ぶ人がいますか?


その答えが誠ならば・・・


「あきらめるな!」

本物を見極めるポイント。

本物志向の時代へ。

と何年前のキャッチーでしたか?実情はどうでしょう?本物志向の時代が到来していますでしょうか?

どうも、現代の日本人は、新しい概念を作り出すスピリット、パッション、または、本物を見極める能力が著しく欠けて来ているようです。

本来は、本物と偽物の差は歴然であるにも関わらず、全く見抜けていないのが悩ましいですね。ただ、現代は、多様な価値観が入り乱れており、更にスマフォ、タブレットの躍進で、表向きの表情、表現が巧みになっています。これでは、肌感覚で本物、偽物の見分けは確かに難しくなってきております。しかし、やはり偽物は必ずどこかに穴があり、不自然さがあり、あるべきものがない、といった違和感はあるのです。

それを察するには、無知では話になりません。例え、その時に知らずとも勉強する姿勢が普段からない人が、刹那的に、偽物に踊らされたとしても自己責任と思って下さい。厳しいようですが。

本物を正しく見極めるコツ、手順は、当事者への信頼度の是非は、最後に置く。

まず、本物は、大昔から変わらない普遍的な心得や哲学を、未熟、成熟は別にして、必ず大切にしております。自由で独自の価値観と普遍的な価値観を切り離している風があれば、それは時流に乗っただけの浮き足立ったものでは?と疑問を持ちたいところです。

このことは、すなわち本物には必ず系譜が存在するということです。相手が初代の方ならば、「貴方の、若しくは、貴方の社長の哲学の基礎を作った師は誰でしょうか?」と尋ねて下さい。※系譜とは家系でも、師でも、教義でも、伝統、出身でも広義で。

次に見るべきポイントは、その系譜の質を定めるところにあります。ここもまた、無知では済まされません。系譜の解釈として、俗に言う流派と捉えて頂いて結構です。〜の下で修業した、元の出身はここ、私の思想や哲学の基礎はここから、我々の業界で言えば、真伝家系、系譜を辿れば大元はここにあたる、といった言い分は、ざらにあります。ならば、どこに質を求めるか?ですが、『教え』とは、至ってシンプルにまとまるものです。一言で言えば、こう。更に補足すれば、こう。と、胸をつく言葉が出てくるものです。そして、より質が高い教えには、品格が高いものがございます。私らも、もちろん即答出来るわけですが、追いついていないのが恥ずかしい限りです、はい。

この事は、何を示しているのかと言えば、「本物は、例外なく、本物に学び得てる。」ということです。

大前提に、師を持たない人は論外、師を持って、はじめて土台に乗ると認識して下さい。

そして、師の質を問う場合は家訓、教訓としての言葉を聞いてみましょう。ポイントは、道徳や、人格として、品性が高い内容や言葉が入ってきます。※何が道徳やら、品性やらが分からない人は、厳しいようですが、現時点では救いようがありません。

さて、まだまだ細かく言えば、見極めるポイントはありますが、この事は、根っこみたいなもので、犯し難い原理原則です。

そして、極めつけは、目の前の方、当事者の人柄です。学問的には、道徳、教養、修養はどうだ?人格とか、人間性がどうであるか?高いか、低いか?など多少、堅苦しい見方になりがちですが、これはこれで正しい見方ではあります。ただ、より実践的な見方としては、「人柄」を観る。という感性でお願いしたいと思います。ひとまず、ここを押さえたいポイントに。

人柄は徳性を観るに最適です。ふくよかさや、ほがらかさや、誠実さは、滲み出るものですから、素直に観れば察することは出来ると思います。

ここも、ひとまずクリアとなると、はなからの詐欺行為、三流、五流のものに出会わないと思います。せめて、二流以上、ひょっとして、一流、それ以上かもしれません。また人脈の作り方も、異性の出会いも同様です。

二流、一流、超一流の人、物、サービス。または、その種をしっかり持っている人、物、サービス。特に後者の出会いがあったなら、すぐに満足がいく幸せや喜びがやってくるとは思わずに、共に育てあう、そういった「ゆとり」の中で、見守りながらの機微を重ねることも大事な構えでしょう。

「大丈夫、本物の種はいつか咲きます。」

特に若い起業家や、最近の経営者は、新しいもの、イノベーションという言葉の本質を履き違えているように思います。それはイノベーションではなくて、機能が増えただけの足し算です。芯がないビジネスなら尚、罪作り。

イノベーションは、未来を展望すればするほど、そのまんまで、そのもの自体で既に乗数、掛け算方式が含蓄されていることをイノベーションと呼びます。

更には、先人達の普遍的な土台があってのイノベーションであることもお忘れなく。

ぶっ壊しているようで、魂は必ず受け継がれているのが、真のイノベーションであります。

明日から意識されては、如何でしょうか?

巷に溢れるものの見方が変わってくるのではないでしょうか。

とは言っても、例え、浮き足立つものが主流、流行とは言え、産業の熱は奪うことはあってはならないわけです。ただ、少しずつでも、少しずつでも、本物志向にシフトアップしていけるよう切願しております。



愛について。

数千年もの間に殆ど言い尽くされてきた「愛」について、今更、新しい価値を見い出すことが出来るのでしょうか?

「愛」の定義は、時代、国によって様々に変わってきたものと思います。特に宗教は「愛」の定義、愛の教義においては、他の追随を許さぬほどに表現に知恵に力を注いできた歴史がございます。また、近代的な思想系団体の「愛」の表現たるや・・・恐れ入ります。

皆さんが広く愛について、考え、体感することと言えば何でしょうか?例えば我が子に対する思いであったり、お子さんがいらっしゃらない方は恋愛ではないでしょうか?

「愛」という漢字が入る言葉(熟語)は多数存在しています。日常生活でも、何気に使う言葉でもありますね。それだけ人の営みに大事な要素であって、無くてはならない前提(心構え)のようなものが「愛」ではないでしょうか?

日本語としても、日常会話としても、頻繁に「愛」の付く言葉を使っているにも関わらず、どうでしょう?「愛」そのものについて、深く考えたことはありますのでしょうか?

はい、まず私からお答えします。

「ありません。」

これは、占い師という指南役の仕事をする前から感じていた違和感です。

何故、こんなに日常に溢れている「愛」について、コンビニより遥かに多く目に、耳につく「愛」について、ある団体は、高い檀上から、「愛を出せ」「愛を与えろ」「愛を感じろ」「愛を受け止めろ」「愛を・・・」と、美しいBGMに乗せて、豪語しておられるのか・・・。全く、理解が出来ませんでした。それを聞く群衆も、目をキラキラさせながら、または、時折、涙を浮かべて感動をしているではありませんか・・・。

これらは一見、韓流ドラマを見ている女子の心と眼と同様、または、悲しみ(憂い)からくる母性愛を擬似的に上げられている状態と同様です。

重度に愛に飢えている、深刻なまでに愛情を知らずに育った人には、キッカケとして「愛」を論理的かつ体験的に学ぶ場としては必要なところもあるでしょう。しかし、一般の方々にこういった場や過剰な教義は必要なことなのでしょうか?

もっと言えば、「愛」をそれほどまでに表舞台に出すことが必要なのか?ということです。

冒頭に申し上げましたが、「前提」として、愛はあってしかるべき構えであるということ。だから、これだけ日本語として多彩に、多様に「愛」が取り入れられているのです。これは、要するに「愛」だけでは使い物にならないことを裏付けている証でもあります。だから「愛」の定義は、広義で十分、とらえ方も自由で結構としたいわけです。

「愛」は流れている。

そして、風はいつも吹いている。この捉え方で十分過ぎると思っています。風を日常生活で「あえて感じる」ことをしていますでしょうか?「私は出来ません。」しかし、風が吹いていることを意識すれば、感じることは出来ます。「愛」とはそういうものです。

「風を吹かせ」「風を起こせ」「風を感じろ」「風を与えろ」「風を・・・」

そもそも「ある」ものを、「あえて」取り上げることに違和感を覚えないでしょうか?真冬に扇風機は要らないわけです。余計な風は邪魔になります。そして、風とは「静」でも微かに吹いていることを知ることです。

「愛」は尊いです。

自然は尊いわけです。大地は私らの暮らしを日頃は何の文句も言わず支えて下さっているわけです。人は現実を真剣に生きれば生きるほど「愛」と無縁の世界に浸る感覚になります。当たり前です。こんな時に表舞台に「愛」を持ち出すことは、かえって邪魔、衰退(消滅)を招くことにもなります。

あえて「愛」を持ち出すならば、人生を掛けるほどの相当な覚悟がある場合です。

万策尽き、これ以上ない時に不思議と起こる(起こす)風があります。そんな時に「愛」を察し、こんな時に「愛」を感じ、あんな時に「愛」を頂き、ひょんな時に「愛」を与えることで十分です。

そして、普段は風はいつも吹いている。の認識が肌で分かっていれば良いことですから。ですから、何かをする前提として、構えとしてあることが大事・・・が正解と繰り返し申し上げております。

風をいちいち気にしていては、それはただ単に立ち止っているだけ、進んでいないのと同じことです。

「愛」はどこまでも受け皿(非生産的)なものです。

現実を打ち抜いていくことが、人の運命です。現実を変えたい、現実を豊かにと思うのであれば、「愛」より「情熱」です。一度、愛の熟語を沢山調べてみて下さい。私が述べている意味が少しでも分かって頂けるかと思います。

現実的な「愛」は熟語で点数ありとし、「愛」そのものに点数はないとします。

だって、いつも愛は流れているから。

五行思想は創作思想。

東洋占術家として、どの占法を主として使っているとしても、必ず一度は勉強して頂きたいのが『易経』です。稀の事と思いたいのですが、易経の序文さえ知らないという占い師は、まず「もぐり」と思って頂いても結構かと思います。

万物の生成と消滅の原理、宇宙、この世は一体どう成り立っているのか?といった根源的な原理を説き、更にその先にある人の生き方の真理や哲学を求めた学問でもあります。※孔子編纂『十翼』参照。

現代物理学の進歩は目ざましいですが、文学的ニュアンスとは言え、最新の物理学定理を凌ぐ内容も多く存在しているとも思います。

例えば、物理学史上、最大の二大革命と呼ばれるものが、『量子論』と『相対性理論』です。東洋運勢学の二大革命(発明)と言えば何でしょう?まず陰陽思想「陰陽学」は絶対的でありましょう。すなわち『易経』とも言えます。ひとまずの話として、次に出てくるのは、五行思想「五行論」ではないでしょうか?合わせて『陰陽五行説』とも呼ばれます。結論から申し上げれば、陰陽五行説とは、後から再婚したみたいなもので、五行論が婿養子の形で婚姻関係になったものです。更に結論から申し上げれば、其仙流は、この陰陽五行説を懐疑的に見ている立場であります。百歩譲って受け入れるならば、陰陽学と五行論は、はなから分けてとらえて考えるべきものとしております。

五行思想または五行説とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底にあるとしたもので、この考え方は東洋だけではなくて、実は西洋でも、似た考え方が存在しています。(四元素説)
また、五行の互いの関係には、「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という性質が付与されています。詳しくは割愛しますが、要するに木、火、土、金、水の関わり合い、互いの相性を細かく分類しているのです。

さて、北宋になると周敦頤が『太極図説』によって『老子道徳経』の無極を取り入れ陰陽五行によって解釈した無極-太極-陰陽-五行-乾坤-男女-万物といった構図を図として提示したものが有名ですが、私はこの陰陽⇒五行⇒八卦と繋がるのが、何回見ても理解し難いのです。

前述の五行元素における「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という性質を読み解こうとしても、矛盾が生じてしまうのです。相克関係なんかも、解釈として、剋する。というより、支え合う。の方が、より実社会的に思えてしまうのです。直球で申し訳ございませんが、現代で言う『オカルト』としか見えないのです。起源も紀元前250〜300年ほど前でもあり、運勢学の歴史としては、比較的新しい学問であります。五行思想、その着想に至った経緯も諸説ありそうですが、天文研究で5つの惑星が当時発見されていたことから、元素を5つにしたとかを聞くと、陰陽学を発明したほどの東洋哲学らしくなく、安直で、後から辻褄合わせ的な匂いも漂ってきます。また、五行は自然界の生剋と循環を表すものです。しかし、よく考えて下さい。木は木、火は火、土は土、金は金、水は水です。そのどれもが単独で成り立っているではありませんか。どこに生成と消滅がありますか?『役割』なら理解出来ます。それぞれの役割を説くなら、解釈は容易ですし、運勢的に考慮させるのも一理ありそうです。しかし、五行元素のそれぞれは、その時、その場面において役割や解釈が変わるのです。主役であり脇役でありエキストラにでさえ・・・。従って、一概には包括出来ない側面もあるので、やはり、運勢に反映させるのは無理筋です。また、循環を示すなら、食物連鎖を考えてみて下さい。あれが正に自然界の循環であって、五行のどこが循環と呼べるのでしょうか?自然と不自然。循環とはどこまでの自然の流れ。無理筋があってはならない、限定的であってもならない、こじ付けがあってはならない、まして、流れに人為が働くことで成り立つ関係があるなら尚更です。五行の循環は、そういう意味では無理筋がありそうです。火は土を生ずる?金は水を?一理は当然ありますが、よく考えてみれば、限定されてすぎてはいませんか?また、循環、循環と言いながら、原点回帰がない。出発点が見当たらない、軸が取れない感じも致します。

政治で野党が五団体連立している風にもとれます。『見掛け』を合わせただけに過ぎないのではないでしょうか?

この五行から十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列)もきています。暦の表示に使われるものですが、其仙流では、五行を否定している立場の延長で十干も運勢的性質を有するような扱い方には否定の立場です。俗に言う十干十二支の組合せで、60年。これを一巡りとすることを否定しているわけではなく、あくまで、これらは、事実が先にあり、後から当てはめた符号みたいなものです。実際は、何でも良いわけですから、このことを超えた性質を求めたり、役割を与えるのは、曲解どころか捏造です。

運勢学における原理や哲学は、先人達から頂いた宝物です。しかしながら、実際はガラクタも沢山含まれていることを、そろそろ誰かが、勇気をもって公言する時代に差し掛かってきたのではないでしょうか。

高級レストランで、見掛けは全て一流。素材、作り方、味付けは、五流以下。「美味しいですわね。おほほほほ。」と上機嫌のお客さんと、したり顔の店側。ここでの問題は、シェフも客もこのズレに全く気付いていないことです。言いたくありませんが、こんな支離滅裂なこと、光景が至る所で発生しているのです。

滑稽とは正にこの事でしょうか・・・。

ですから、我々は、尊敬する先人達の名誉と誇りを取り戻すためにも、やはり、過失は過失、失敗は失敗と素直に認め、後の時代に少しでも本物を残して、引き継いでもらうことではないでしょうか?

過去、数千年もの間、是正がされてこなかった原因については、他のブログでも散りばめて語っております。何故私達が、これほどに勇気と自信をもって、成熟しきった常識を、間違いである!と断言出来るのか?この未知なる分野、ニアピン論で終始する分野においては、問題提起として論理的に突っ込むことも研究しながらも、最後の最後は、運勢学という、掴めそうで掴めきれない未知なる世界の創始者である『天』に直接、確認することしかありません。我々は無相が使えます。最後は無相で天の承諾を得てきたわけです。このことが、論理的根拠も示しながら、この大胆な是正活動が出来る所以です。

根拠の根拠、原理の原理となれば、五行説を、大前提として否定しながらも、残すべきとこは残すとしたところまで作り上げていく為には、これからも根気強く研究していくしかないわけですが、それを待っていては、『実害と無価値』の存在がいつまでもあり続けることになります。実害は問題外ですが、無価値なものに、心が揺さぶられ、お金を払うことほど、滑稽なことはありません。

細かい実証はこれからとして、まずは勇気をもって、打ち出しておきます。

『五行思想に、何の根拠も価値もございません。』

占術、医術、武術に多大な影響を与えることになろうかと思いますが、

『五行思想はオカルト思想に近い、時の運勢学論文ブームに名を馳せたい研究者の勝手な独自の創作思想と原理です。』

五行頼りの、五行を軸にしたもので、効果あり、実証ありとした立場の方々にも、大変、失礼、心外な思われるでしょうが、

『偶然か別の要因です。十中八九、五行の理屈での因果ではございません。』

まずは、過激でも打ち出しをしておきたいと思います。

「器」以上の運は来ません。

耳が痛い。

人の器以上の運は来ない。

これは、私も肌で感じております。また、過去から現在もなお、苦い経験をもって確信している原理原則です。

厳密に申し上げれば、器が1㍑容量の人には、1㍑と少しの運が入ります。「おまけ付き」とも言えますし、微調整分とも。

逆に100㍑の容器には100㍑+おまけ分となります。この運の原理原則を基本に置けば、着々と人生の制度設計(デザイン)をこなしていけるわけですが、高望みするのも人の性、身の丈しらずも人の愚、中々どうして、イマイチ正確に右辺と左辺の方程式を捉えることが出来ないものです。

よりLevelの高い運、高望みの運が舞い込む為には、簡潔に二つのことが言えるでしょう。

1、器を広げる=今以上の人間力。

2、準備万端=後は本番を残すのみ。

の、二点が噛み合って、次の段階の運が舞い込むようになっています。これは、いくら「運気」自体が宜しい年、個人の運気が上がり調子でも、犯す事(背く事)が出来ない原理原則でありまして、逆説的に申し上げれば、1、2が化学反応を起こした時には、必ず相応の運がやって来るし、「掴める」ものです。

ここで重要なポイントは、運の異名はチャンス。チャンスを掴むのは、更なる運もありながらも原則は人間力です。

チャンスを掴めない、掴んだチャンスを活かせない、そういう人は、偏った部分だけが吐出して、舞い込んだは良いけれど、長続きしないことがよく見受けられます。身の丈以上の運は、時に害になる。ということです。

分かりやすく言えば、本質的に帝王学を学べていない経営者、人間が出来ていない経営者は、遅かれ早かれ、会社を人をダメにするのです。よく情報産業で見られる傾向ですが、マーケティング力のみに吐出した、偏った準備だけに反応した『運』で掴んだ成功は、ビジネスモデル、スキーム、仕組みのみに経営力を注ぎがちです。表面的なことだけではなく、しっかりとビジネスを支える理念、哲学を有することが求められます。もっと言えば、経営者の人間力が問われます。あるようでないものに価値を見い出すことに専念せずに、内外においても実態を示し、どこまでも実態を重んじる姿勢がないと、流星の如く現れ、流星の如く散ることも少なくありません。かと言って、刹那的でも一時期儲ければ良い・・などと拝金主義の考えもあるでしょう。これは、ビジネスであって、ビジネスではありません。また、投資でもないわけです。余談になりますが、そこにお客様がある限り、小さくとも企業であって、ビジネスでありながらも、そこに社是たるのもの、貢献が基軸になければ何の価値もないという哲学。ここにもっと社会全体が問題意識を持たないと、骨のない経済が、見せかけの商売が若者の目指すところになってしまい、本質的な人間の成長がどこか置き去りになってしまって、口だけ経営者、論語読みの論語知らずを多く輩出することになりかねません。

さて、話は戻りまして、このことはつまり、それだけ天に生かされている証とも言えそうです。また、それだけ高いレベルでの成功と更なる成長は、過酷なまでの試練があるとも言えます。

1、本物、本質を有したものを持つこと。

2、商品化する準備が万端であること。

3、相応しい人間力が備わっていること。

しつこいほどに申し上げますが、より本物、本質をついたものを取り扱うほど、偏った準備だけに「運」は反応致しません。全ての条件が整わない限り、反応しないところが、実に不思議な関わり合いでもあります。

昔からよく言うところで、「成功の前には耐え難い苦労をさせられる。」は、正に、本物のところにしかやってこないのです。逆説で言えば、然程、苦労なく、試練なく、掴んだチャンス、運が作用した事は、確かに本人の魅力、力に賛美はしたいものの、どこかに偏りが・・、どこかがひび割れが・・、また、そのもの自体に重さ(本物)があるものなのかどうか?を謙虚の上に謙虚にとらえて、いずれにせよ「是正・研鑽」をどこまでも念頭に、を肝に銘じたいところです。

とは言っても、これら全ては日々の微調整が利く運もあってのこと・・・。

これもまた意味深です。

これまでの話は人生の節目的、大風呂敷の運の関わり合いを説いてきました。タマゴ、ニワトリ論ではありませんが、人の営みは日々であって、日々の浮き沈みに対応する、微調整が利く「運」があってこそを原点としたいわけです。その積み重ねと飛躍をもって、行く先の姿に通じていく因果律でもあります。

また、日々の運があってこそ、早期の準備に至る、紆余曲折あっても『繋がる』とも言えます。

大志あっても無念で終わることほど、辛いものはありません。

この大半が、日々の運についての概念不足が原因となっております。分かりやすくこう考えて下さい。

年⇄月⇄日

天⇄人⇄地

この相関図から何か感じないでしょうか?

『運』の起点は、日であり、人である。という見方です。この事は、始まりでもあり、終わりとも言えます。

日の積み重ねが月であり、月の積み重ねが年である。人(努力)の積み重ねが天(機会)が得られ、更なる人(努力)が地(環境)を作る。※様々に設定は出来ます。

この原理原則をついつい忘れてしまう、ついつい飛ばしてしまうのが、人の怠慢さ、という厄介な煩悩です。

下記は「原理原則の何となくをとらえる」上で参考にしてみて下さい。

「日々の微調整が利いていない感じがする。」

と、思われる方はまず運がない。と思ってもらって間違いございません。

「何をしても堂々巡り、進化がない。」

と、思われる方は志からを見直したい。

「真剣勝負で挑んではいるが、なかなか開かない。」

人、物、サービスが本物か、本質を突いているのか?今一度、見直したい。

「確信を持って、真剣勝負で挑んではいるが、チャンスが来ない。」

最後は人間性を問われる。にどこまでも謙虚に。

総じて、器に見合った「運」の掴み方、育て方、それ以上の「運」に見合った「器」の作り方、磨き方には、原理原則が常に働いているということ。背けば、虚、偽、刹那。従っても、苦労は付きものです。

ならば、最終に頼れるのは何なのか?

『情熱なき者』に、どんな成功もなし難い。ここを締めの言葉とさせて頂きます。







お散歩Blog②「透視系領域と黒について」

お散歩Blog②です。散歩になっていないとの指摘がありますが、私は散歩中に思考実験をするのが、趣味ですので。(笑)

さて・・・。

① 雲
② 光
③ 直観
④ 色・イメージ
⑤ 映像
⑥ 霊・声

これは、ホームページ内の無相とは?のページにまとめた既知・既存能力と無相の相関図の一部です。

無相は、①〜④が領域であり、メイン領域は①②の雲であり、光です。③④はサブ領域にしています。厳密に言えば、⑤は特別な条件下において発動の付記も加わります。

⑤⑥は、いわゆる霊視、透視、千里眼ですが・・、相関図とは、何を示しているかと言えば、「人生の造化」への活用範囲、多機能、多様性の比較でもあります。人生の基本姿勢は、いつ何時も創造(クリエーション)です。ここに「使える能力か、そうでないか?」が、問われるわけですね。

結論から申し上げれば、番号通り、①〜⑤と段々に縮小してまいります。

そして、次に共通項として、ある線を引くことが出来ます。それは、「拡大、収縮線」です。それぞれの能力は能力で、優劣があったとしても、全てに共通する根本的と言いますか、心構えとしての見方が拡大的か、収縮的か?です。拡大とは、幅が広い、ゆとりのある見方、姿勢であり、当たる、当たらないを超えて、損得を超えて、価値のあるものを提供しようとする見方です。それが、かえって、豊かさが高まる。わけですが、反対に、収縮とは、狭い、執着、固執、損得主義の見方、姿勢であり、当たる、当たらないを超えない見方、姿勢であり、占いは占いの範囲で収まり、かえって、豊かさが小さくなります。

他のブログでも再三にわたり主張しておりますが、お客様がどんなに浅い器でも、損得のみに執着される人でも、微塵も説教なんて受けたくない人でも、結局、参考にしないような軽い人でも、なんだかんだ、紆余曲折ありながらも、最終的に造化的・拡大的に戻る、戻す。「陽的見方」にいつでも戻ろう、戻そうとする意識は常に働かせておきたいですし、分かろうが、分からまいが指南をさせて頂くという迫力は持ちたいですね。

また、③の直観を左右に分けた場合、⑤に寄ればよるほど、「修行・才能」の度合いが高まり、①に寄れば寄るほど、「人間性・素直」の度合いが高まります。

従って、決め付けたような見方、固まったような見方、経過した後の見方、陰的見方である「透視・霊視・千里眼」は、人生造化の幅が狭くなりがちであり、百の質問、事柄を百で返すだけの実力を有するまでは、相当な修行や才能もいります。ただし、透視能力の寿命、賞味期限はあるとしておりますので、トータル的に評価をすれば、使える範囲や精度や期間が比較的狭いのは否めません。

そこで、無相の雲や光は、経過前と申しますか、決め付けない自由な見方、あらゆる設定(質問)に応じる見方、大中小規模、内容にこだわらず、あらゆる「お尋ね」に感応し、お答えが返ってくる仕組みにおいて、雲があり、光がありで、万事に使える「大らかで優しい能力」であると言えます。

無相も、絞った見方、出方(色・イメージ)もあるわけですが、あくまでサブ領域であり、どこまで雲、光(白黒)がメインです。無相の熟達度の見極めは、人間性が高いか、素直さがあるか・・も、また魅力的な評価でもあります。

※ 但し、高いレベルで使いこなすには、それなりの訓練はいります。

そして現在、個人的に趣向研究として、思考実験に入っているのは、雲、光の上はあるのか?です。それは、上という解釈なのか、また別軸なのか?も含まれます。

今、一つ確信している・・いや仮説として着目しているのは、

「黒」

です。

無相は、瞑想にて、背景の黒に雲や光や色をお答えとして得られます。炙り出している、とも言えます。また、黒と雲、光と黒のコラボレーションで感じる、翻訳しているわけです。

黒とは、何なのか?

宇宙空間も、黒(空間)が殆どを占めます。人の心も黒(執着など)があります。

様々な色を混ぜに、混ぜたら、黒に近づきます。

黒は、意味なのか?黒は、異次元と繋がるホールなのか?黒は、情報元なのか?

DNAも元データとコピーと役割部隊が絶妙な機能を果たします。

何か、この視覚的に見える、また感じる黒とは、一体何物なのか?

無相中に、黒から黒が出るようなイメージや、まさに黒色があります。

これは、引き込まれるような感覚になり、翻訳すれば、陰中の陰です。怪しい、闇、詐欺・・。

そこで、黒は黒と決め付けて良いのだろうか。

異次元から見たら、黒は黒なのか?

陰陽があるように、こちらの世界から、見たらどこが光で、どこが影であるのかは、明白でありますが、あちらから見たら・・・。

「黒」は重力も現した概念であるのか・・いや、雲が重力を現したものなのか?

思考は尽きません。

ただ、仮説にて確信しているのは、「黒」は、これからの研究の要のような気がします。

神の存在の定義なるもののキッカケに黒の定義があるようにも思います。

神は、知恵の固まりです。無限の物理法則に従っていながら、全てを抱えている、抱えていける知恵がある。

「無相も知恵」である。

に、尽きます。

その知恵の数式化が、物理学会で言えば、統一理論、大統一理論であるのかもしれません。

一流占い師の育成を目的にしながら、地球規模の人類の進化の一助になりたいという別テーマもあって、「無相」や造化開運法「和気修方」を広める活動をしております。ですから、科学の進化にも、是非、無相の概念も取り込んでもらいたいと思います。

無相は、現代においては、人知を超えたように聞こえる能力ですが、しかし、雲や光の論は、知れば知るほど、どこまでも学問的であるからこそ、私のような理学部出身のはぐれ者が、確信を持ったとも言えます(笑)

タロット(Card系)占いの限界点。

タロットの歴史は古く、占いのジャンル多しと言えど、最も有名なものは?と、統計を取れば、タロットが断トツで上位に入るのではないでしょうか?水晶はタロット同様に、イメージとしてはよく占いの象徴に思われることがありますが、実際、水晶メインでやっている占い師は少ないと思います。水晶は、いわゆる透視の類でもありますので、相当の腕がないと、飯は食えないとも思います。その点、タロットは、オモチャ屋でも置いてあるくらいに、ある意味庶民的で、入りやすさと神秘性もあいまって、特に女性に人気がある占法です。カードのくり方(混ぜ方)、並べ方、出し方はいくつか存在しておりますが、それぞれ支持する方法を採用しているようです。私も随分昔、タロット占いを受けたことがあります。現在は、占いを生業(プロ)にしてしまったので、あえて鑑定に行くことはありませんから、実践の空気感は、動画サイトやタロットの性格を自分なりに研究することで見えてくるものがあります。
占いの勉強の始まりはタロットからです。と言う人も多く、和泉堂の当代も子供の頃でしたが、占い始めはタロットからだそうです。現在は、タロットのタの字も言わなくなりましたが・・・。これだけ、タロット人口が増えてくると、腕の差も正にピンキリで平均値をどうとるか?も難しいジャッチになりそうです。と言うのも、タロットに限らず、混ぜて、置いて、めくっての手順でやるCard系占いは多岐に渡りますし、枕言葉に、霊感、直感といった複合と呼べるのか?は別にして、オリジナリティを加えて、それぞれに独自のカード占いを展開しております。少し脱線して、占いを伝統的に種別化すると、命、卜、相。このうち、卜がカード系占いに属します。東洋系占いでは、易占や、古くは六壬神課(りくじんしんか)も卜占に入ります。元来、占いとは国家の命運を分ける時に活用されるほどに、大変高尚なものでしたが、時代とともに良い意味で庶民の手の届くところまで浸透し、悪い意味では通俗化してしまっています。その中でも、運勢学の最もレベルが高い原理、概念、哲学を有する易経さえも通俗化している有り様は、我々も従来から危惧しております。ただ、中味を深めず、ゲーム感覚に表面的にとらえて、やり方さえ覚えれば、庶民でも扱いやすく、入りやすいのが卜占です。また、近場の事柄、明日の流れ、小さなテーマ、世間の悩みに即対応(転換)が可能ということもあって、比較的、実用的に使えます。東の易経。西のタロット。ロマンチスト、神秘が大好きな西洋思想寄りがタロット(Card系)占いであることから、男は易経。女はタロット。も皮肉かな・・・。

本題に戻りまして、易占の六十四卦にそれぞれには、それぞれの意味、象意、代表的な訳し方がございます。タロットも同様でカードに意味があり、逆に向いてる、向いていないで、更に意味を広げていきます。過去、現在、未来に一貫性を導き出し、その流れにおいて、どう考えるか、どう行動するかを示すものです。これは、易占にも通ずる見方です。※占う事柄は様々ですからケースによって着眼点は違います。

筮竹50本、算木、筮筒の三種の占具が導き出す啓示は、驚くほど芯をつくことがあります。長年の研究をもって、作法から始まり、筮竹50本という妙数にも恐れいるところです。タロットもそういった意味では、同様の評価はしたいところです。

さて、ここでのテーマですが、いくら庶民に受け入れやすく、やり方に準じていれば、扱いやすいとは言え、翻訳一覧表をそのまま棒読みでは、人生百般には使えるものではない。という命題です。これは、タロット(カード)も同様です。

カードが示す意味、メッセージは、あらかた大枠では決まっていますが、毎度、ストライクばかりピッチャーは投げないように、直訳だけでは現場は通用しません。カードが示す意味を、場に応じて、異訳したり、飛訳したり、前後させたり、スライドさせたりしながら、お客様の状態、状況にフィットした内容に読み解くことが求められます。これが出来て占いであり、その先に指南がございます。易占にも全く同様のテーマがございます。そこで、この壁を超えるコツと言いますか、超え方を二つのタイプに分けて紹介します。まず、Aパターンは、『文法的英会話タイプ』場数を踏むことで、カードの持つ意味(単語)と出方(文法)を、学校で習っていた英語のように、一応、文章に出来る。といった力をつけるタイプです。簡単に申し上げれば、流暢(りゅうちょう)に話すので、それらしく聞こえてしまう、ということ、そして、お客さんも毅然とした物言いに、のまれてしまう(当たるを探す)ことも多いのです。次にBパターンは、『実践的英会話タイプ』です。アメリカへ留学しようものなら、学校で習った英訳文法では、殆ど伝わりません。単語並べて、四苦八苦し、ネイティブな英語力ともなると、なおのことです。要するに、現場で、実践で使える力がないと、それこそ話にならないわけです。これには、カードの単語、文法をいくら知り得ても無理です。易の卦も単語的解釈は安易に出来ますし、小学生でも分かる単語です。ただ、現場をどこまでも意識して、となると、本卦が持つ意味(単語)には、語源と同じく、成り立ちがありまして、上卦、下卦の関わり合いからきているわけです。従って、卦は単語的解釈より、『象』でみる、言い方変えるなら、『イメージを掴む』となります。空気感のような・・はっきりと意味付けしてしまうと、そこに幅がなくなり、それこそ文法的翻訳、英会話を超えません。青色を清々しいとだけ見るか、コントラストで憂いと見るか、青は青でもイメージには幅があるわけです。これはタロット(カード)にも当てはまる見方です。更にこの飛訳、異訳が出来る背景には、カードだけ見つめてては現地に立っていないようなものです。やはり、お客さんの器をどこまでも軸にした、投影した見方で繋げていかないことには、ネイティブな、ど真ん中で伝わる英会話は生まれないでしょう。

さて、ここまでの話はある程度通るでしょう。ここからが、それこそ『ご飯が食べれる』レベルの話になります。

文法的英会話→実践的英会話。さらにこの上と言いますか、内蔵する調味料、スパイスがございます。

はい、『直感』です。

復習ですが、お客様からの相談内容がまずあってのことからのはじまりで、そして、お客様の器をどこまでも軸に、更には出たカードをどこまでも幅を持って、繋げていくことがお手本です。しかし、言うは易しで、経験や知識(見識)のみで組み立てることは、毎度、毎度は至難の技です。しかし、プロは、スコアは多少上下しても、極端には乱れません。それは、カードとカードの『つなぎ粉』になっている・・そう『直感』が働くからです。直感が自然に、また時に小さな雷鳴のように働かないことには、ど真ん中と言っても、図星も含んだ心のど真ん中にはささりません。かと言って、直感が働かずとも、それなりのボールが投げられるのがプロと言うものです。をお忘れなく。

最近は、よく直感タロットと目にしますが、本来は、あえて取り上げることでもないほど、プロならば、根底に常に意識があり、気構えみたいなものでもあります。※霊感タロットは問題外。実は昔から、タロットは、直感が鍛えられると言われていまして、直感訓練でタロットを一時期経験するのも、一つの道でしょう。

さて、通常であれば、ここまでの話でおしまい、となることが多いのですが、更に更にここからが本質的な話になります。

つまり、『直感』を抜けば、どこまでも平均値になりがちであるし、『直感』だけに頼れば、杖がなくなる。のが、タロット、Card系占いのバランスの問題です。

もう一つ言えば、出すカードが多すぎます。事象、啓示を出し過ぎにも、問題ありと見ます。一見、土佐の澤地料理のように豪華で、一貫性がありそうに見えますが、羊羹(ようかん)の横に揚げ物があったりと、実際はバラバラであります。これを、せっかく象、イメージで「要」らしきところを掴まえかけても、どこかで造作、脚本が加わり、全体がぼやけ、辻褄合わせに必死になりがちになります。これは、直感が加わっても、次の展開で、ストンとテンションが落ちます。「途中からグダグダ」です。

更に補足の問題提起とすれば、直感も曲者の側面があります。

確かに、直感は小さな雷鳴のようでありながら、その幅は広く、ピンとくる、といったベクトルが向く衝動も直感ですし、意図する事柄、気持ち、テーマが、スッと「まとまる」そして、言葉が出る。言わされてるが如くに自然に・・も、直感の幅です。

問題は二点。

一、毎度、毎度働かない。

二、その後が続かない。

一、二は、被るようで、異なります。一は、相談者毎の相談事案毎の初動に働く大局的な直感力の問題。初発の直感が作動しなければ、まず確信と核心をついた流れからの導入は、諦めるしかないことが殆どです。働かない理由は、相談者の真剣度や本人の集中力の兼ね合いが引き起こす直感との相性なわけですが、この場合は、それこそ、前述にもありました「実践的英会話力」でつなぎ、そこそこの平均点で、後はアフタートークの内容に思いを込めて、お客様にご納得頂くしかありません。そして、二は、相談事案の一貫性を問う場合の起承転結における問題です。初発の直感が見事にはまり、出だし好調のすべり出しでも、次のカードは何とか直感の惰性で繋がっても、更に次のカードが示す事柄に直感働かず、どんとテンションが落ちることはしばしば。大事な落とし所にもその空気が感染した状態で棒読みのアドバイスになりがちです。

総じて、タロット占いは、どこまでもバランス力が構えにないと、映画の予告編のような構成になりがちでもあります。または、イントロ、入場演出だけは活力あって、後は説明会のテンションが続くことにも。

何が言いたいかと、結論から言えば、タロット(Card系)占いで、「最高点を目指すならば、直感頼りの占法である。」しかし、直感は不安定であって、断続的(刹那的)な傾向が強いものであると言うことです。

そして、直感なきタロットは、言うまでもなく平均点以上はまず出せません。

初見で、その方の人生のど真ん中の言葉が出ない。ということです。話しているうちに、リーディングと言うのでしょうか?感じることは可能です。これも風情で、私は必要なことと思いますが、「占いである」の前提条件をひとまず満たしてからの余白としたいわけです。

「はい、では、直感を超えるものはあるのですか?」

「はい、ございます。」

「それは、いわゆる透視ですか?」

「いいえ、違います。透視も、不安定で断続的な部分は直感と一緒です。ただ、偶然に因果律がはまったら、それらは、詳細に分かること、体験出来ることは魅力の一つでしょう。たまたま当たったらですが。」

「では、それは何でしょう?思い付きません。人知を超えた見方で、安定的で継続的に観ることが出来る能力・・・。」

「はい、この世にたった一つ、これら全てを包む能力は、そう、観相学の大元の一つ、麻衣相法から発展した無相しかございません。」

そう無相しか・・・。

超能力は楽を得るものではありません。

科学では証明されていない分野において、特に超能力について話を進めたいと思います。超能力と言っても大変幅が広い言葉でして、物体を物理力学では証明出来ない未知の働きで動かすとか、気功も達人級までいくと、奇跡と呼ぶに相応しい現象を起こすことも可能です。皆さんが信じる信じないは、この際置かせて頂きます。達人級が起こす漫画の、映画のような奇跡現象を目の当たりにしたり、近親者からや、体験者からの話を何度も聞くなどしていますと、そんな事はあるわけない、全て造作、詐欺などと決めつける人達との人生観の幅は、明快な言葉にはならないですが、何とも言えない差があるように思えてきます。勝手尺度ではありますが、『知らぬことがもったいない』とさえ。

「人知を超えることが世の中にはある。」と確信出来る経験は、良し悪し超えて価値は高いものと思っています。

超能力には物体をどうにかする力学的超能力と、学問的には超心理学などと立派な名称が付いていますが、まぁ通俗的に言うところの透視(千里眼)的超能力に分かれます。今回のテーマは、透視的超能力を得たとする仮説の中で、それらは実質上どう評価出来るのか?をはっきりさせておきたいと思います。

まず、信じる、信じない。肯定派、否定派の理屈を全て棚に上げてもらいまして、「こういう能力、世界はある。」とした大前提で向き合ってもらった方が、より理解しやすいコラムであり、これから私が述べる問題意識と共鳴しやすくなると思います。UFOは100%いる前提で話を進めていきます。いちいち「ある、ない」「信じる、信じない」のひっかかりを気にされると、問題提起の核としたい話の本筋がぼやけてしまうので、まずは、このセッティングをお願いします。

さて、本題ですが、近年の透視的超能力の浸透度は目を見張るものがあって、ジャンルによっては市民権を高く獲得しているものもございます。相当に前評判が高いもので、こんな能力を得ることが出来たら・・それこそ神の力の一部を日常的に使える・・となると、あらゆる意味においてですが、普通の価値観で生きていけるのか?とワクワク感と不安が入り混じる感覚を覚えるものです。

しかし、現状をみてください。そんな能力者やある意味での達観者がうじゃうじゃいるか?と言えば、そう見当たりません。単純にここまで市民権を得てるなら、またこういった能力教室、セミナーが繁茂し、参加する人らも劇的に増加してることを単純に考えれば、英会話や音楽といったお稽古事の存在感と言いますか、同様の手応え感が欲しいと思うわけです。

お稽古事は暫く時間を掛ければ、どんな人でも即生活に反映する手応えを持つものですし、周りにもその手応えを自然と示すことが出来ます。

これは、何故か?

まず第一に考えられる事は、前評判と実際があまりに離れ過ぎている。ではないでしょうか?要は「習得出来ない」ということです。これはこの業界のあるあるです。演出、脚色の有無はさておき。テレビなどで活躍の能力者が魅せる技の数々に時に驚愕致すところはありますが、これらの抜粋を広告、謳い文句にしている割には中々そこまで習得出来ないのです。

また、もう一方の見方ではこれらの人知を超えた能力は当人の「コツ」なるものが大半を占めておりまして、コツはコツで、例えば長嶋茂雄氏のコーチ法ではありませんが、ニュアンス法に終始してしまうのもよく分かります。従って、曖昧なところで理解をせざるを得ないことになりがちです。再現性も打率一割もいけば良いとなるわけです。

超能力業界は大概がこんな調子ですから、いくら人口が増えても、世にはっきりと示すだけの根拠や実力を持ち得ないのです。

草野球にもならないチームが多数いるみたいなものです。ではプロ野球は?大リーグはあるのか?と問われれば、事実ないわけです。せいぜい、監督はすごい。とか、四番バッターだけはいる。とか、伝説上の選手はいた。が殆どです。

悲しいかな、間違いなく「ある」けれども、市民リーグさえ作れない状態です。※余談ですが闇のチームは存在しますが、闇は闇としてこの話題と次元も質も内容そのものが違うので割愛します。

この実情に我々も悔しい、歯がゆい思いもしていることは事実です。ここで、我々の主張や活動や技法もざっくりまとめれば、仮に超能力とした場合を考えたいと思います。前述の広がっているけど、深まらない理由については、記述の通りですが、よしんば、誰がやっても衆知のお稽古事のように平均的に深まるとしたとしても、次の課題と言いますか、ボタンの掛け違いや認識を履き違えると価値そのものを失うことになりかねませんので、改めての問題提起を。

まず、私も大前提として、人知を超えた見方が出来るわけです。いわゆる世間から見たら、超能力が日常的に使える人です。未だに新鮮に感じることは確かにあります。当たり前にやりすごす事でも、これは周りからすれば小さな奇跡の連続なんだな、と思うこともしばしばです。

前述の話ではありませんが、このように何でも見通せるような能力を日常的に使えるようになったら、世間の人からすれば、それはそれは楽しい、また人生の景色が全然違うだろうとか、苦労知らずになるだろうとか、怖いものも無くなるだろうとか、詰まるところ「楽が出来る」と思われる傾向があります。

それは、全くの誤解であって、能力の有無で人格のあり様や環境が世間と大きな差が生じるか?と言われれば、そんなことはありません。全く世間様と抱える悩みや問題は同様でございます。

「楽は出来ない」
「劇的に何かも変わらない」

です。ただ一点、世間様との差を申し上げるとすれば、人様にこの力を使い、そうは真似出来ない貢献が自分なりに出来ることくらいではないでしょうか?

結局のところ、どんなに優れた超能力があっても、悩むし、詰まるし、失敗するし、忍耐はいるしで、どこまでも人格、人間性を高めんとする宿命は、社会人として何ら変わりがないということです。運も人も成長ありきですから、「器の成長と共に。」とは本当によく出来た言葉だと思います。そうなんです。超能力といっても、きっかけは人間が起こす現象ですから、人間に元々備わる能力として大きく見れば、大したことは・・まぁ、大したことではありますが、神格化するなんてことはナンセンスと言えるのです。

ですから、こういった能力のお習い事の再現性(打率)もさることながら、打率5割、8割打者になったところで、同じ人生の苦労は、それぞれにあるということです。別腹というか、別格というか、これは打率5割打者以上になってからでないと肌では理解出来ないとは思います。だから、元々人間の能力は人の為に活かすものであって、この凝縮した能力(超能力)は特に、ただただ、世の為人の為に。があるのかもしれません。

しかし、ここに哲学や重心を置いとかないと、習ったものの、使えたものの、せっかくの能力そのものの価値を薄めてしまう、どこかで捨ててしまっていることになりかねません。また、もう一方の危険性は、ならばと、自身を「神格化」させて、能力即利益構造に走ることも否定できません。

世の中に本当の意味での質とボリュームをもって超能力をスタンダード化させるためには、また、プロリーグを発足させるためには、まだまだ超えていかなければならない、ある意味、目に見えない壁があることは申し上げておきたいと思います。

全ては、やはり人格と運の良い間柄から全ては生じるわけですから、明日を予言出来たところで、成長なき明日は何の価値もございません。ということですから、結局、自分にも他人様にも「指南」が必要不可欠であって、その先に「理念」と呼ぶのか、「志」と言うのかがいるわけで、人生変わりたければ、それこそ「楽をしたい」ならば、手前でこれらの準備と過程はしっかりと対応していくことでしょう。

総じて、超能力は「楽」を得られるもんではない。ということはご理解頂けたでしょうか?

また、まだまだ問題山積のごとし、まずはこういった細かいところまでもきっちりしっかり住み分けをしながら・・・各超能力分野における発展と融合を願います。
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和泉堂 坂上 透

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