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無相とは?

3秒先の運勢も分かる
占いイノベーション技法 「無相(むそう)」


無相(むそう)とは、観相(人相)からヒントを得て、我々の流派が約100年程前に開発、苦心研究してきた技法でございます。その基となる観相学は、「麻衣相法(まいそうほう)」と言います。約千年前の中国(五代時代)に“麻衣仙人”という方が確立されて、その弟子が編纂し、書き残したと言われるとても有名な相学です。「麻衣相法」は近代観相学の基礎の一柱とされる見方もございますが、我々としては「始まりでもあり、終わりでもある」としたい立場です。 と言うのも麻衣相法より千年あまり、「心で観る麻衣相法」の神髄、深さ、奥義といった部分が真に翻訳されず、形、形、分析、分析・・・といった「陰相(陰法)」の見方、解釈が広がってしまいました。それは、麻衣相法に限らず、その他の観相学も、流れに従うように 「陰相(陰法)」が主流となっていったのです。我々は当時より、麻衣相法に深く感銘し、その一言一句、言い回しから全てに何とも表現し難い“奥ゆかしさ”“密語なるもの”を感じておりまして、それこそ、麻衣先生の意に従うように、「神」=「心」=「陽」として、どこまでも「陽相(陽法)」の解釈、読解を進め、研究してまいりました。 陽法とは、太陽の恵みのように、造化、発展、循環、流れであり、動的な見方を主とし ます。それこそ「理屈を超えて一発で、ど真ん中を見抜け」です。そして、それが我々が世界中に普及してまいりたい技法=「無相」に繋がっていったわけです。まず、この「無相」の原理(原点)とも言える部分の説明をさせて頂きます。要するに、どこで、どういう風に占うか?ということですが、それは、人相でいう印堂(いんどう)です。印堂とは眉間のことです。この印堂とは人相家ならば、誰しも知っている部位でもあり、人相でも第一に挙げられるほど大事で部位でもあります。印堂は、諸行の吉凶や、運気そのもの、健康状態、etc を観ることが出来るとされる部位です。ここまでは一般の方でも聞いたことがあるかもしれません。そして、あまりに有名なこの印堂の可能性を、それこそ未知なる潜在能力と言わんばかりの活用方法を発見したわけです。冒頭より申し上げておりますように、長い歴史の中で、人相は「陰相(陰法)」が主流になっております。陰法とはすなわち“静”とし、我々が展開している論(陽法)とはすなわち“動”であります。

簡単に申し上げれば、陰法とは、人相に現れる(顕れる)ものを観て判断することであり、形も含めて、出ているものだけを観て、解釈するという見方です。そこで、陽法とは「動」つまり動きであり、変化であり、創造であり・・・そうです「人生は造化」という概念があっての見方であります。 そして、この印堂においても“静”でなく“動”の見方を軸として、その究極の作用を発見したわけです。それは・・・

「 お尋ね(質問)をすれば、的確にお応え頂ける。 」

という既知を超えた、神業とも思える優れた部位であることが分かったのです。次ページ以降に詳細(マニュアル)を付けたいと思いますが、この段で、もう少し説明を加えれば、 「生活、社会の小さな単位、また大きなテーマまで、森羅万象・・・ありとあらゆる事柄の「見通し」や「実情」を質問(お尋ね)一つで、イエス・五分五分・ノーといった風に的確にお応え頂けるものです。」無をもって、心より観念(質問)し、その応えは印堂で。そしてその印堂の応え方(表現)としては、「光」であり「雲」のようなものです。このヒントは、既に麻衣相法に明快に書き記されています。極めてシンプルに言えば、印堂が光れば、イエス、光らなければ、ノー。ということです。

「 人生 を「 光と雲 」 で観る。 」

これが、麻衣相法の極意であり、我々の「無相」の原理でもあります。さて、ここまでの論は印堂を軸にした動的見方(お尋ね方式)で、直接、印堂を観て判断する方法でありますが、これより数十年の苦心研究により、より高度に、より幅を広げ、この光雲の翻訳を、もっと豊かにする方法を開発することになっていくのです。

■ 瞑想法の開発、発展。

この瞑想法は、人相、印堂に顕れる光や雲のようなものを、例えば、畑に農作物の芽が出るように、表層化する前の土中“根っこ部分の振る舞い”を観る方法です。肌に顕れる前に観てしまおう・・ということです。これにより、瞑想という手法を採用したことで、この光や雲がお尋ね次第で様々に変化し、表現して頂けることで、吉凶(イエス・ノー)を遥かに超えて、より実生活に、実社会に活きた言葉に翻訳出来るようになりました。

「光」であり「雲」を様々な日常的な言葉に翻訳出来るようになった。

ということは、それこそ、無相一つだけで占いに使え、また各人がより豊かな選択と、心得えを的確に得ることが出来るようになったわけです。ここで、重要な点であり、疑問でもあるでしょうが・・・・・、では、どこからそのお応えが返ってきているのか?という点です。我々は、この「無相」という近代的な技法は、あくまでも麻衣相法からの出発であり、それ以上でもそれ以下でもないという立ち位置をとりたいのです。他のジャンルに混同されず、曲がって伝わらず、また独自の造語もせず、という理念でもあります。ここまで言うのは、根拠があってのこと・・・です。無相は知れば知るほど「概念」と「価値」が既知、既存の能力、技法とは根本的に異質としたいわけです。強いて、説明を求められれば・・・「天」「宇宙」からお応えを頂いているとしか言えません。

実はこの「天」という言葉さえ、表現し難い心境でもあるほどに、どこまでも「無相」は世間並で良いし、自然体の存在で良いし、人々に浸透し、常備能力として在る未来の姿を想像してやまないからです。

再度、能力・技法の「陽法、陰法について」

占い(指南)法において、大きく分けて二通りに分けることが出来ます。それは、陽法と陰法です。後記でもこのテーマについて時折言及しておりますが、今後の進化、発展において重要なキーワードになっていくものと考えております。さて、占い(指南)法における陽法とは、陰法とは?ですが、ここについては様々論が出てくるかと存じますが、我々なりの捉え方をご説明させて頂ければと思います。

「陽法」とは、「動」であり、動く前の気配を察する能力、見方である。

宇宙は無常。絶え間ない変化の連続であり、生生発展(造化)の象徴でもあります。人生は瞬間、瞬間の積み重ねであり、“今ここ”に軸をとりつつも、変化に応じた選択の連続でもあると言えます。別の言い方では、常に動きの中で、うごめきながら先々の有効な、豊かな選択を迫られることが人生であるとも。まして、未来は自由で設定ありきなわけです。“今ここ”においても「動」であり、未来は「動」の集合体でもあります。占いにおいても、この「動」の渦に籍を置いた見方、能力が求められるわけです。人の心は複雑怪奇、不安定です。先々の選択において、より有効で、より豊かなものをどう取るかは、変化が起こるまえの、動く前の気配を察することが全てとも言えます。従って「陽法」とは、造化を第一目線とした未知の事柄を目まぐるしい動きの中でとらえ、包括的にまとめていく動体視力的能力、技法の総称とします。

「陰法」とは、「静」であり、動かない事柄を当てる能力、見方である。

陰法の解釈には厳密に2点あると思っております。まず1つ目ですが、人生は「今」と「これから」と「今まで」に分けるとしたならば、「今まで」が静としたいところです。過去は化石という表現と、過去の経験が未来へ繋がる材料という表現とありそうですが・・・ここでは評価は一旦横に置いて、このように動かざる事を見ようとする、当てる能力、見方が陰法です。(行き過ぎと前世なども・・・。)もう一点は、画一的なビジョンを追う見方です。未来は自由で設定ありきとしたならば、無数の未来の像があるわけです。例えば映像的に未来を追うならば、この無数の細かな設定毎のスピードに都度対応することは、ほぼ不可能なわけですが、それでも一点見えるビジョンを追求する見方も陰法と言えます。本質的な未来のような、未来でないような・・・有効的とか、豊かさが高いという概念を取り入れているようで取り入れてない見方とも言えます。従って「陰法」とは、未知の事柄を過ぎ去った情報の中でとらえ、また、見えたものを道(事実)と見立てていく解析分析型の能力、技法の総称と。

「 拡大 ・ 収縮的見方について 」

占い能力・技法の陽法、陰法と大きく住み分けさせて頂きましたが、更にその中でも2つの見方があります。陽法と言えど、拡大的見方と収縮的見方が、陰法でも拡大的見方と収縮的見方があります。陽→拡 陽→収 陰→陽 陰→収となります。

● 「拡大的見方」 損得を超えた価値を見い出す。

後記でも論じておりますが、拡大的見方とは、一言で言えば「幅が広い見方」となります。ゆとり、余裕をもった見方とも。

● 「収縮的見方」 損得を超えない結果を求める。

これは拡大的見方と真逆であり、一言で言えば「幅が狭い見方」となります。固執、執着した見方とも。占い師側の視点でもありますが、お客様にも当てはまる事柄ですので参考にしてみてください。ここで、この拡大的見方と収縮的見方、強いては陽法、陰法と絡ませて、この差を一言で、端的に表現出来ないだろうか・・・?と随分、長い間悩んでいました。それがある時ふと降りてきた言葉に出会いましたので紹介させて頂きます。

「 自発的な知恵の有無 」

でした。陽と陰の指南の差はここに尽きそうです。知恵を奪ったり、知恵を強制したり、知恵という概念さえ省いたりする詰めた見方、言い方は豊かさ=成長=運の方程式を崩します。そうするならば、当たる、当たらないの論で言えば、この“核心の知恵”が出るまでのヒントとして、状態、気持ち、先々の見通しを、言う、言わない別にして能力者(占い師)側が把握しているかどうかが腕としたいところです。詰めた見方は、結局、お客様の知恵を奪ってしまっています。そして、人生は知恵が大事であるということを飛ばしてしまいます。まずは、知恵を絞り出してもらう空気感や環境を提供することが、そこまでで一旦とめておくという余裕、ゆとりが、陽法の極意とした論です。「どうなりますか?」「どうなっていきますか?」のみを無限連鎖のように詰めてお願いをしてこられる方も多いですし、能力者側も人生に何の影響もない事を当てる、当てるにこだわり、パワーを使い、詰めに詰めて見るのが好き、これこそ最上の能力と言わんばかりの人もいます。


「ほどほど」を基調に。「ほどほど」が“成長の程よい種”である。

もっとシンプルにまとめた言い方をすると、「ほどほど」でしょう。先々の方向性や今ここの状態、気持ちも「ほどほど」に見るということがとても大事です。人生は複雑怪奇、人の心は不安定でもありますので、「ほどほど」で抑えないと、かえって結果を悪くします。別の言い方で言えば「ほどほど」でなければ知恵も真心も辛抱も出がたい、ということでしょうか。鋭い見方は流れの中で出てくる見方であって、「ほどほど」を基調にがミソでして、また現実も「ほどほど」で十分であり、何事も70点が100点という事です。

→では次にこの「無相」について具体的な仕組みを説明していきたいと思います。

―――――  序文として【無相の領域について】 ―――――

「運命、宿命論をシンプルに」

日本に生まれた事、この両親、この環境に生まれた事、性別・・。
自らの意志で変えられないものがあるわけで、これを土台(ステージ)とします。これを50パーセントとしましょう。そして、人生には浮き世の続きと言わんばかりの宿題があるわけです。必須科目と言いますか・・これは、ひとまず10パーセント程度としましょう。一生涯のボリュームを100とすると、大きく分けて60パーセントは避けては通れない土台であり、道とします。重要な点は残りの40パーセントです。「これが、造化のスペースであります。」「造化」とは、自由であり、設定であり、変化を絶え間なく・・であります。そして、このスペースの中にも「縁の種」も、ポツポツとあるわけです。「縁の種」も育てながら、造化の人生を邁進していくことこそ、「人生の本当の価値なわけです。」我々の麻衣相法から派生し、進化していった無相は、特にこの造化スペースに力を発揮するのです。ここで、着目する点は、この40パーセントの造化スペースは、「陽の領域にある」ということです。太陽は地球に多大な恵みを与え、植物から動物、人間に至るまで、切磋琢磨、知恵を絞り、進化の為の循環と変化を試みてきました。正に「造化」なわけです。太陽は絶え間ない「陽」であります。そして、この無相は、「陽」であり、「陽法」であります。変えられないものの上に、立脚し、与えられた課題を真っ向から、特に初年に立ち向かい、中年、晩年にかけて、豊かな、それこそ「造化の賜物」と言わんばかりの環境を手に入れることが人生のお手本のようです。宿題を後回ししていると、ガン細胞のように・・。土台(ステージ)に嘆いてばかりいると・・。例え、造化スペースが10パーセントであったとしても、「人生の本当の価値は造化スペースにあり。」それに尽きるわけです。多様多岐にわたる現代において、あらゆる手段があったとしても、土台(スペース)をいくらいじっても、宿題をいくら減らそうとしても・・大事な事は、造化スペースに目線と姿勢が向いているかどうか、が大切で、重要です。

【 造化の人生指南に最大の威力を発揮する技法 】

無相は、自由であり、設定次第の造化の人生(選択)に最大の威力を発揮する技法です。後に具体的な無相マニュアルとして、活用範囲の説明は致しますが、この段はその前の序章として申し上げます。本編前述にも展開しておりますが、最終的な指南を除けば、占い師(指南者)として最も大事な能力は、“今ここ”の状態を把握出来る力と、未来の方向性の判断力と言えます。その根拠があっての指南、アドバイスとも言えます。そして、この論の展開において無相は、“今ここ”においても、未来においても、どこまでも「造化の妙」をテーマに沿った見方が出来ます。その根拠としては、無相はあらゆる設定に素早く判断出来る点です。極端に言えば、ラーメン屋によって、家に帰るのが良いか、そのまま帰るのが良いか?の質問さえ、人知を超えて見ることが出来るのです。“今ここ”においての状態を知ることにおいても、人の気持ちもシンプルから、やや複雑なあたりまで一瞬で分かります。また、~だとしたら、もし、こうなったとしたら?といった仮定を通した流れの良し悪しや状態の変化も見ることが出来るのです。

これぞまさしく「造化の妙」です。

事業、創業時や恋愛の付き合い始めなどは、あらゆることをゼロから造っていくことが多いわけです。そして、大きな方針に沿うように、小さな選択を呼応させていく必要があるわけで、その小さな選択を、比較したり、直接的なメッセージを読みとったりと、それこそ無から有を造り出す事に最も適した無から有を導きだす技法でもあります。透視のように絞った見方(映像)などでは、毎度このスピードについていけるか?と言えば、断言して申し上げますが、能力としてはついていけません。無相は、何故これだけの幅があり、スピードがある技法なのか?それは、繰り返し申し上げておりますが・・・

「全ては雲であり、光を素材として活用しているからです。」

無相イノベーションポイント!

● 人の人生「雲・光」で見ます。

● 暮らしの小さな単位に「即役立つ事」が正確無比に見えます。➡ 小が大を兼ねる奥伝法。

● 天に何度でも何度でも繰り返し「お尋ね」が出来ます。

● 未来を知るには、複雑なほど「雲・光のボリュームで。」の新しい概念と方式。

● 一度、覚えたら「水泳(泳ぎ方)」のように、忘れません。

● 多岐にわたる人生設計(設定)の良し悪しを「一つ一つ速やかに」見ることが出来ます。

● 誰でも習得でき、基本は「共通した見え方」である。

● 光は無限。光は変幻自在。とにかく自由をモットーにそれぞれの味で。

● 雲・光は人類共通言語。「光のニュアンス」をあらゆる意味に翻訳出来る。
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お散歩Blog③「タレント哲学者」

アフリエイト広告などで、物を買ったことがない。

学生上がりの、産毛しか生えていない人が人間力を履き違えたまま莫大なお金を手にする情報ビジネス。

何の深みも、魅力もない人が成功する世の中。そんな人からは買いたくありません。製造元、販売元が連動するならまだしも、いくら製品が良くても、顔も人格も見えない人から買うことで、産毛が産毛のままの若者を育ててしまうことに、ストップをかけたい。

巷で騒がれているヒルズ族を見たって、よく聞いて下さい。浅薄極まりない事しか言っていない。この人達に寄る、崇める若者や中年の方達は、可哀想でなりません。

また、甘えん坊のおぼっちゃま育ちの中年医師も、人間学を説いたような書籍やセミナーをして、重宝されていますが、言ってることを、人生真剣勝負の気持ちで感じてみて下さい。緩い、緩い正論です。単なる「タレント性」です。

他にも、ノマドとか流行していますが、元はアンソニーロビンスでしょうか?皆さん、よく冷静に見て下さい。

パフォーマンス力のみが特化しているだけです。それは、私には到底無理なので、そこは素直に尊敬致しますが、ディズニーランドは、恒常的に人間学に取り入れるものではありません。

やる気は三日坊主。パフォーマンスで得る「やる気」は、不謹慎ですが、覚醒剤と同じ作用を与えます。

「きっかけ」を見出すことが出来ない人の為のセミナー。とか、一時の元気をあなたに!とか、こう焦点絞るなら認めたいし、ぜひお願いしたいくらいです。しかし、それ以上の真理を打ち出し、過剰な期待を煽るような、全てが変わるといった、時空を短縮出来るような広報は、薬事法違反です。

本音は、自らに熱がない、地下に入り込んでしまっているような人、不健康な方のみを対象にしてもらいたいと願いますが、実際の参加者の殆どが、健常者。不健康と思える人でも健常者。

何か間違っています。何が抜けているのか?学びは永遠であり、劇的に変わる、などは地下から日の当たる場所に出た時のギャップを示すものです。どこからの出発で、劇的に変わるを打ち出しているつもりなのか?ノマド講師に本音を聞いてみたい。

辛いことばかりに見える人生ですが、波はあっても、殆どの日本人が日に当たっているじゃありませんか。人によっては地下生活が長く続くことも人生はあるわけで、いずれ胸張って生きる日が来る。そのきっかけがノマドであったなら、価値を認めたいです。まして、日に当たっていることは、当たり前の認識で、ここからが真の学び、闘い、成長であることを、誤認してはダメです。

健常者が、満たされている人が、劇的に変わるはずはない。

それは、錯覚。もしくは、足るを知らないエゴイスト。

自分を変えたければ、成長を求めるならは、

「粛々と」

が、真の学び方。です。

はい・・・、スピーチ力、タレント性(ブランディング力)のみで、今や社会の花形に躍り出る時代です。

これが、何年、何十年続くのでしょうか?史上稀にみるほど、日本人が浅くなっています。

これらの浮ついた成功者は、メディア戦略で誤魔化しながら、盲信しながら、続けていけるわけです。しかし、日本の下支えになっている産業、伝統、文化で活躍している人達は、一定の品格を備えていますから、そうそう浮ついたメディアの世界には出てこない。浮ついた花形の世界にいる「タレント哲学者」の品性は、作り物の品格の場合が殆どです。大事な要素でもありますので、否定はしませんが、「見た目は大事」のみに留まります。品性、品格など、そんじょそこらでは身につきません。

だから、一般人で生まれた人は、「粛々と」長い時間をかけて、滲み出るものです。

本題です。

せっかく、教育改革がなされても、大人になるにつれ、目に飛び込む多くの情報が浮ついた内容だけでは、元も子もない。

少子高齢化の時代に突入するわけですが、国力は、人口の問題ではありません。C級が1000万人いたって、C級はC級。

浮ついた表舞台に立っている人らは、この国の在り方を見据えた覚悟があるのか?あなたが発するパフォーマンスで、どれだけの若者に害を及ぼしているか、間違った人間学を染み込ませているのか?抜け道、近道ばかり教えるのか?どちらも、どちらではありますが、影響力のある方が罪は深い。

自己顕示欲の塊に見えて仕方が無い。

一億稼ぐやら、人生は逃げても良いなどと、心理を逆手にとったような「まやかし」で、世間を無駄に掻き回していることに気付いてほしい。

本物であり、真っ向勝負している賢者は、まやかしは使わない。

ただ、まやかしを使わないと売れない、伝えることも出来ないこの世の中が間違っているわけで、譲歩するところはございます。

がしかし、一度、影響力がある地位まで登ったら、誠に正していただきたい。登るまでは、やりたくないメディア広告、露出の仕方、ブランディングをしましたが、、、と。功を獲って、ようやく本質の世界を作れる、提供することが出来ると、いきなり紋付袴姿で、大どんでん返しを繰り広げて頂きたい。(笑)

実際、高い理念があるなら、やりたくて、言いたくて、仕方が無いと思いますが、やはり、殆どの上澄み成功者が持っていないのでしょう。

それは、単に「若者にしか通用しないパッション、思考」だからです。

人間に通用するパッション、思考を持った人も山ほどいることに、メディアは目を向けるべきです。

さもなくば日本は朽ちますよ。

修方力とは?ー 開運法の選び方 ー

人は気を抜けばいつの間にやらエゴイズムな生き方に・・・。

自我もほどほどにと頭で理解していても、土壇場では性分に負けてしまうのが人間というものです。無我、非我の境地といった宗教的見地はさて置き、自我が全くないのは現実的には問題であって、それぞれの我勢に応じて、自らをもって、手懐け、しつけることが大人の自意識としたいところです。

さて、この自我の在り方はその人の生き方を大きく作用します。このことは「運」の理解、解釈に反映されている場合が多いのです。

極端な分け方をさせて頂きますと、自我の強い人は、「運」も自力と鋭く理解します。自我の弱い人は、「運」は他力と鈍く理解します。ほどほどの人は、「運」を造化と深く理解します。すなわち、自力と他力の中間点(造化)に「運」の本質が存在するとみています。

確かに、自力運とは人間性が鋭く関係しております。人為の成果はスマートに出るし、原因と結果がその人の人間性を通せば理屈で繋がりやすく、総じて「何となく、運が良い」を引っ張るのが人間力とします。

反対に他力運とは、人間力の産物というより、自然の産物であり、天地の恵みが包括的に関係しております。自然の影響は、定量化することも、因果律を説明することも困難ではありますが、時に人は、目に見えない何かに生かされていることを感じる体験をします。総じて「不思議と運が良い」を引っ張るのが自然力とします。

整理のために、この解釈の何が、どこが正しくて、間違っているか?を問うものでも、指摘するでもございません。自力運、他力運どちらも通る言い分(いいぶん)であり、紛れもない事実でもあります。問題は、どうしても二極化してしまう傾向があることです。自力運派は、他力を懐疑的に見る傾向があったり、他力運派は、自力を独善的に見る傾向があったり、どちらかに傾倒した生き方になりがちです。

そして、自力と他力の中間点(造化)とは?となりますが、これはまず「運」の理解、解釈として、言葉のニュアンスの違いを感じて頂きたく存じますが、中間点(造化)とは、自力と他力を引き出す司令塔のような役割であったり、相互作用、つまり酸化と還元のように、成長を促す役割であったりします。

自力⇆造化⇆他力

ここから言えることは、人生(運)には、自力も他力も両方いるわけで、それらを上手く、正しく育て、引き出す触媒的役割、リーダー級の存在があって、人生は引き締まるわけです。総じて「妙に、運が良い」を引っ張るのは修方力と呼称します。

更に整理を致します。

◼️三つの運

① 自力運 = 人間力
② 他力運 = 自然力
③ 造化運 = 修方力

◼️三つの運の相互作用

人間力➡︎△⬅︎自然力

どうも偏る、上手く反応していない気がする・・・、人間力と自然力を正しく引き出す力があれば・・・。

人間力➡︎修方力⬅︎自然力

修方力は、人間力を高めるきっかけを正しく与え、育てる。また、自然力を正しく引き出す力を持つ。

人間力➡︎◎⬅︎自然力

このことは、つまりクリエーション(創造)、生生発展を示す。

すなわち、『造化』です。

東洋哲学の華と言えば、「中庸」です。中庸の定義に即して生きることを最大の徳としておりますが、修方力の概念はまさに中庸を得ているとも言えるでしょう。厳密に言えば、元から含まれているといった方が良いかも知れません。

中庸を得ているからこそ、清く正しく、生生発展の道に準じることが出来るのです。

更に整理を致します。

人間力。
「何となく、運が良い」を引っ張る力。

自然力。
「不思議と、運が良い」を引っ張る力。

修方力。
「妙に、運が良い」を引っ張る力。


です。

どれをとっても運が良いに変わりがありませんが、人生、例えば経営において、運が必要な時に必要なだけ入ることが、大事なポイントであります。必要な時、必要なだけ、が妙言です。ここを頻繁に掴むことが出来る人は、「運」が本質的に回っている証です。正に、自然に修方力が発揮している状態で、更に言えば、そうでなければ、「継続的な加護」は中々難しいと思います。「妙に運が良い」の妙は、畏敬の念さえ醸し出す風があります。

ただし、修方力の性質上、サプライズ的、万策尽きた頃、予期せぬ角度から突然やってくることも多いですが、本来修方力とは日々の微調整が全てとも言えるので、本人が気付かないほどさり気ない出来事だったり、「当たり前」「これは、自分の力だ」と、傲慢に思ってしまうような事柄も含まれます。最低限の謙虚さと、さり気なさを察する、感じる人間力が備わってこその味でもあり、主は日々に溶け込む形で、非常事態の際は、軍事力として発動します。

「人生は自分で切り開くものだ。」

は、大正解ですが、これを豪語する前に、「では、どう切り開くのか?」を自身に問うてみられることをお勧めします。

人間力しかり、自然力しかり、必ずそこに運が直結して関与しています。

刹那の繰り返しではありませんか?人に好かれる事をされていますか?その事業は、10年後存在していますか?

「運を大事にしていく生き方。これすなわち人間力、自然力を大事にしていることの証です。」

そして、人間力、自然力を最大に引き上げ、適度に引き出すものが、修方力とご理解下さい。

世間は世間並の運がいり、リーダーにはリーダー級の運がいります。

最後に、人間力、自然力の中間点に置く力は、世の中ごまんとあります。ここを置き間違えやり続けると、先々は必ず先細る、それに長くは続きません。実は、自身が置かれている環境や条件が甘い、緩い、満たされている場合が多く、既にある財産からもたらされる運を、開運と勘違いされる人が多くいます。開運法は、このような人の思い込みを巧みに利用する事も可能であるからです。

万人に等しく作用する原理と仕組み。

万人が聴いて、誰もが納得する概念。

安かろうが、高かろうが、開運法を取り入れる際は、遊びは遊び、本気は本気としっかり棲み分けて臨まれることをお勧めします。一生涯、あなた様と苦楽を共にする覚悟がある迫力を持つのが「本気の開運法」です。本気の開運法を見極めるには、しっかりと手順を踏むことが大切です。

人生の在り方を真摯に問い、世間一般の良心、良識に従って考えてみた時、そのもの中間点(開運法)にある概念として、まさに中庸を得ていて、人生のお役に立つとした深い造詣を兼ねたものがあるのか、を理屈も押さえながら、心で感じて頂きたい。また、見せかけだけで、間違った原理、仕組みの修方力もあることを、きつく留意もしておきます。

其仙流の奥伝は「小が大を兼ねる」

其仙流(当流)の観相(人相・手相)、無相は、言わずと知れた「麻衣相法」より生生発展してまいりました。既知の観相術が静的ならば、当流は動的見方です。当方の大義は、静的、動的見方の融合を目指すもので、線、形、あるがままの分析的、評論的見方に、易で言う「微」のゆれを察する、すなわち、この先の運勢を観る見方、または迫力のある、ど真ん中を突く一言が閃く見方が加わる(融合する)ことで、生きた観相術に一気に昇華し、真にお役に立つ占法が確立するものと思っております。それらは温故知新のイノベーション技法として、公開中の無相は元より、当流人相、手相術も随時公開していく予定です。
さてここで、整理のため当流占法をシンプルにまとめてみます。

◼️観相術(手相、人相)
源流は麻衣相法 = 察する、感じる。すなわち動的見方。奥伝基礎原理は、雲、光の明暗、造形を言葉に転換する。

① 天地ガチンコ法
→ 顔、手の平を上下に二分し、上部を『天』、下部を『地』とし、ガチンコ(重ねる)することにより、溢れてくるメッセージ、滲み出てくる言葉を探る、閃く奥義。

② 手相 水鏡法。
→ 手全体を意識し、手の平をスクリーンに見立て、吉凶含む環境、人生の哲学さえも、自然の造化や移ろいを、四季を感じるように読み取る素心法。

③ 人相➡︎印堂法。手相➡︎明堂法。
→お尋ねをすれば、お答えが・・・奥伝中の奥伝。眉間の印堂に、手の平の中央の明堂を意識し、オンオフ的感じ方の運勢はもとより、知りたい事、聞きたい事を素直にお尋ねすれば、パターンで、もしくはイメージで、シンプルな言葉に翻訳できる無相の原点。

④ 無相ー瞑想法ー
→ 印堂法、明堂法の応用。雲、光のパターン、イメージからの言葉の翻訳が多様多彩に。

⑤ 即神即相
→ 其仙流最高峰の境地。

大枠でまとめれば、このようになりますが、麻衣相法そのものも、または各カテゴリーにおいても、それはそれは本にして3、4冊では書きたらないほどの内容がございます。人生百般から森羅万象までを観る上で、雲、光を原材料として取り扱うので、様々に応用が効き、バラエティに富んだ見方が可能です。

当流が今後、世に出していく全ての奥義は、これまでの常識の上に立っているとは言っても、一見すれば、常軌を逸する内容と思われることもあります。しかし、経験から申し上げれば、理論的根拠と圧倒的な再現性を体験して頂くことで、これまでの疑問は全て払拭し、ご納得頂けるものかと存じます。

ただ、ありとあらゆるところが他と違う、レベルが違う、質が違うと言いましても、無相の瞑想法と論文形式の麻衣相法のみしか公開していない為、串が通るようで、通らない部分はあって当然とも思っております。しかし、まずは商業出版や、有名雑誌記事に取り上げられる前段で、軽々にホームページにUPすれば、無断転載や、ひどい輩になると、私らが前から使っていたとか、我々の技法だとか言いかねない、そういう危険性や可能性がある業界でもありますので、歯がゆいところはございますが、公開出来る内容は限らせて頂いております。

当流占い教室の生徒さんには、これら全ての根拠と技法は提供しております。※コース別によって、公開範囲あり。

【 3秒先の運勢も分かる 】

いきなりですみません。

「3秒」と「も」に留意頂きながらキャッチコピーの凄味を感じて頂きたいと思います。当流占法は、ありとあらゆる事柄が分かりますが、更に突き詰めて、当流占法をオンリーブランド、PBとして扱えるだけの宣伝文句(専売特許)はないかと考えているうちに、ある事に気が付きました。

それが、3秒先の運勢も分かるでした。

そもそも当流占法、技法は、生活の小さな単位、小さな選択を的確に、深遠に、指南も馳せて提供すること、すなわち「より、お役に立つ見方」を追求してまいりました。お客様のお悩み事は、案外、足元の事柄であったり、少し先の心配事であったり、真剣勝負となると、今ここ、明日、数分先の決断を迫られることもしばしばです。この小回りの運勢を、事柄を察し、感じ、最上の道を示すことが全てとも言えます。しかし、大きな流れ、時間軸、人生、生き方のテーマといった事もおさえた上での小回り(足元)と補足させて下さい。

と言うことで、特筆すべき点は、やはり足元の事柄を鋭く、また包括して観ることが出来るのが当流、其仙流占法の真骨頂です。その中でも最大のポイントは、すぐ先の流れ、吉凶が即分かる、人知を超えて観ることが出来る点です。

他の占術では、3秒先、10秒先の流れを毎度明確に示すことは不可能と思われます。

この場合は、直感などといった恍惚なものではなくて、当然、心理学を駆使したものでもなく、究極は、相手の姿が見えなくても対応が出来て、我々が扱う雲、光といったある意味で実体として依るものがある見方を議論にしたいところです。

このことはつまり、「大は小を兼ねる」見地ではなくて、当流は「小は大も兼ねる」とする見地で、この価値は、お客様の現実に、真剣さに向き合ううちに、自然に体系化してきたのだと思います。

まさにこれからの占い業界の夜明けに相応しい着眼点であるのかもしれません。

物理学で言うところの「量子論」ミクロ、微視的世界の法則を解明することで、巨視的世界、マクロとの整合性がとれるといった道筋のように、当流も「小は大も兼ねる」とする根拠をもっと明快にさせ、占い界のこれからの進化発展の道筋を、めげず、諦めず、世に示していきたいと決意を新たに邁進していく所存でございます。

正しい「徳」の解釈。

簡単に申し上げれば、徳とは善行より備わる特質を指します。生きるとは、これすなわち徳を積むことである、と言うほどに、徳は人格の大黒柱とも言えましょう。

さて、東洋思想に「道徳」という言葉がございます。まず道とは恍惚な存在でありながら、絶対的な法則が働いているものとしております。道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。とは有名な老子の言葉で、「無為」とは、意図なし、作為なし、あるがままと解釈します。道は無為にして為さざるなしとは、道は特に人が作為せずとも、既に為している。としており、「余計な事を考えたり、手を加えないでも、あるがまま、ありのままで自然に成していく。」という意味です。無為自然、天地自然の働きに身を任せて生きることを『理想の生き方』としている思想です。

この思想から読み取れることは、道は恍惚な存在と徹底していることからも、神よりも道を上にしている捉え方にますます驚嘆するばかりです。

この「道」の思想から東洋哲学が始まりました。以後数千年の歴史の中で東洋思想、哲学は発展し、様々な表現が目に耳につくようになりましたが、実際はこの道こそ、始まりであり、終わりであることを常に忘れてはなりません。

とは言うものの、この「道」の思想だけで、時と共に複雑化していく社会秩序の中で生きていくのは困難です。また大衆に「人の生き方」を具体性をもって示すにはあまりに高尚(曖昧)すぎることもありましたので、次の時代に出てくる思想と言いますか、実践的な真理が、そう『徳』です。ここで始めて融合し、道に徳あり、すなわち「道徳」となって、現実に則した人の生き方を説く哲学として体をなすようになりました。

はい、ここからが本題です。

冒頭にも申し上げましたが、徳とはすなわち善行由来としています。善行といっても広義の意味でもありますし、何をもって善行であるか?や、徳(徳目)の見方は様々で、多岐にわたりますが、とりまとめ、ひとまずの導入として善行由来としておりますので、誤解がないようにお願いします。しかし、ここからも察するに、実際の徳の概念を広く捉えることは求められるし、余程外れない限りは、人それぞれの主張を尊重する姿勢はあった方が良い思います。

私の場合ですが・・・、

よく徳とは何か?を例える時に、重々しく、高い位置付けでは説明しません。

足し算、掛け算の話の展開よりも、「悪徳」つまり、人を陥れたり、妬んだり、利己主義すぎたり、相手に迷惑しか掛けない害を及ぼす考えや、行動をとらない事が、既に「徳」の概念があります、と布石を置くように伝えます。

この意味の意図は、自律があるだけで既に徳があるとしたいわけです。更に人様に「与える」ことが出来るならば、より宜しいと思います。ここで始めて俗に言う善行となりましょう。

しかし、与える、与える、善行、善行と申しましても、この厳しい社会で、また現実の重りを背負いながらの人生で、徳行と言っても、その心象や動機、見え隠れする腹も様々です。それで公明正大で高潔、純な気持ちが善行であるとか、「真の与える」であるとかを定義付けされてしまうと、何をしても自信喪失、腑に落ちようがなくなります。

つまり、人それぞれの徳(徳行)の在り方は違っても良いし、違って当たり前でもあるし、そこに純度を突き詰めない見方も幅があるわけで、すなわち「徳を定量化」することを控えたい、本音を言えば、するべきではないと思っています。

このことは、つまり徳は定量化出来ないと言うことです。さて、冒頭にも記載しましたが、よく「徳を積む」という言葉がありますが、皆さん、どう認識されているでしょうか?徳行を続けるといった意味なら良いですが、あたかも徳の貯金と言いますか、徳そのものが財産のように積めるという認識があるなら、それは間違っています。徳は貯金のように積めるものではありません。当然、徳の働きで、自然にもたらされる有形、無形の財産はあっても、徳そのものを積み上げられる、貯められるものではありません。

このことは自転車の発電式ライトの原理に似ています。ペダルを回せば点く、回さなけば消える。「生きている」とはつまり、ペダルを回していることであり、力強く回すか、緩やかに回すか、弱々しく回すかの差であり、ライトの強弱は様々であるけれど、光は光、徳は徳です。しかしまぁ、力強く回すと、広範囲に光が及ぶので、人の成長、環境の改善、発展に伴い、段々と力強さは求めたいところですが・・・。

はい、従って、生きることを止めた時点で、徳は完全に消えるものとしております。ペダルを回さない、すなわち生きているようで、生きていないことが、不徳としているわけで、不徳の害は内外にすぐ顕わるので厄介でもあり、徳自体は積めない、の根拠にもなっています。

徳力とは生きている以上、常に「ある」もので、呼吸のようで、個性みたいなものと捉えて下さい。

水鏡庵ブログの「前世論」でも言及しておりますが、過去生の徳力だとか、前世で善行を積んだからだとか、生まれながらに徳が高いだとか、あたかも個が連鎖して生まれ変わりをしている説を否定している立場から言わせて頂ければ、それは、徳の高い家系に生まれたと表現すべきです。当たり前です、徳の高いことを代々続けてきた家系は、その子孫は有形、無形の加護があるわけですから、家系の徳力の隔世遺伝と言いますか、魂レベルでもその加護は元から引き継ぐことがあるわけです。しかし、その子孫が傲慢になる、まさにペダルをこぐのを止めたならば、その時点で全てはリセットされるわけです。※止め続けた場合です。

総論に入ります。

このように単に徳(徳行)と言っても、意味、価値、解釈、手段のバリエーションは無数ですから、私は、その全てを含んだ徳(徳行)の在り方について、より万人に伝わりやすい言い方をさせてもらっています。それは、それぞれの立場で実践しやすく、また色々な感慨をぶつけても自信を喪失しない、腑に落ちやすい表現かと思います。

では『徳(徳行)』とは?

「徳(徳行)とは、人に社会にお役に立つことをする。」

で、全て言い尽くしているのではないでしょうか?

難しく、道徳とは?人徳とは?功徳とは?または人格者とは?を論じすぎて、小難しく学びすぎて、どこか高い位置から指南するような論語読みの論語知らずにならない為にも、シンプルに、

「お役に立つ」

を、始まり終わりの「徳」の概念であり、実践法であり、既知の最小公倍数でもあり、最上の哲学としておりますが、如何でしょうか?

何気なく日常で使っている「徳」について、一度深く考えてみることも、徳の扉を開けることにもなるでしょう。(微笑)

多様なご縁をお待ちしております。

私どもは、約三年前に和泉堂として活動をスタートし、約一年前から世に出るキッカケを模索しております。出来れば年内までに商業書籍出版、取材特集や和泉堂の取り扱う商品、占法、開運法、概念に共鳴頂ける方とのコラボ、提携、パートナーなど、多様なご縁をお待ちしております。

色々なお知恵をお貸しくださいませ。

下記は商業出版企画書です。
スマホ用です。パソコン用にも変換出来ます。

http://wasendou.net/sp/book.html

『公の哲学』は永代続く。

事業に『公』あり。

志に『公』あり。

公とは貢献とも言います。どの会社の社是にも出てくるのが貢献です。

貢献や奉仕の道理道徳は、天の道となり、その志が誠に引き継がれるならば、栄え、永代続く事業なり。としたものです。

まず、事業設計、起業時に、この道理を心身共に取り入れてスタートする経営者は何人いることでしょう。初代で終わる、二代目で食い潰す、三代目で干される、といった物語は至る所で起きています。とは言うものの、何もその原因が一概に『公』の有無だけではございません。景気不景気、競争淘汰、予期せぬ不運などなど正に一概には言えない事態に見舞われるのが、経営というものです。

しかし、これらの不足の事態の有無、頻度、軽重、または、乗り越えるだけの人力や知恵や運も、不思議と『誠の公』がある会社や事業は持ちこたえます。例え、形を変えたとしても、です。

『誠の公』は、徳と運の付き方が違うようです。

自らの過去の反省や、現状置かれている環境からも、今の私に突き刺さるほどに感じることがあります。永代続けられる魅力と根拠を有する事業内容と、それに値する人格をなるべく仕上げた上でないと真の成功ならず、です。そしてこの事の意味は、世に出た時点で、それは既に100年、200年先に通る迫力と品格があることが求められるものであるということです。

かと言って、器量、徳量満ちるまで何も動かず、仕掛けずは、非生産的で、よがりもがりの人生になりがちです。少なくとも身の丈に合った環境を整えて、動いてみながら、仕掛けてみながら、『時を待つ』清貧さは持ちたいところです。

それだけ永代続く事業は特段の徳がいるわけです。未来を雄弁に語る土台の部分、芯部がどこか自己本位ではないのか?酔いしれているだけではないのか?偽りのない輝きを感じられているのか?

やりながら、もがきながらで結構です、目先の利、リスクにばかり知恵を絞る才を発揮せず、まだまだ満たないと自覚があるなら、素直に勇気を振り絞って、『誠の公』を磨く徳を発動して頂きたいと思います。

繰り返しますが、天の道に淀みはありません。一見、八方塞がりに思える時でも、火のない所から煙が、日のない所から光が差し込むが如くの奇跡が起こるものです。綺麗事言うな・・・と思う人は否定もしませんし、これには相当の人間力、バランス力もいることですので、生半可にとられても困ります。中途半端な志では、本当に綺麗事で終わりかねないことにもなり、またそういった目先の感覚をお持ちの人(経営者)には、ある意味での『賭け』に伸るか反るかのでもあります。しかし、経営哲学とは本来、個の充実、個の人生観にも関わってくることでもありまして、為せば正解、為さぬなら不正解を決め難い側面もございますけれど、人(経営者)として道を極めるにあたり、やはり公の哲学に傾倒して、全てに『和』がある環境を創造してもらいたいと願っております。

また、個の哲学と公の哲学の差は格別であり、有限、無限の差ほどの開きがございます。それは枯れない井戸のようで、潤いが永代続くと。

競争原理は無くすものではありませんが、もう少し、この「公」の基準が高くなれば、本当の意味での共存も図れると思います。それはつまり、世に本物が溢れるということの裏返しであります。本物を共有することには、何の躊躇も生まれない、純なる気持ちで臨める、集える、謙虚になれる、損得超える・・・、

すなわち、「同志」意識が市場原理に働くことで、無駄のない共存共栄が実現するように思えます。

その頃には、これも裏返しではありますが、偽物は淘汰されていることでしょうし、中途半端な商品に競争原理が働かなくなることでしょう。

そう少しずつでも、少しずつ・・・。
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