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超能力は楽を得るものではありません。

科学では証明されていない分野において、特に超能力について話を進めたいと思います。超能力と言っても大変幅が広い言葉でして、物体を物理力学では証明出来ない未知の働きで動かすとか、気功も達人級までいくと、奇跡と呼ぶに相応しい現象を起こすことも可能です。皆さんが信じる信じないは、この際置かせて頂きます。達人級が起こす漫画の、映画のような奇跡現象を目の当たりにしたり、近親者からや、体験者からの話を何度も聞くなどしていますと、そんな事はあるわけない、全て造作、詐欺などと決めつける人達との人生観の幅は、明快な言葉にはならないですが、何とも言えない差があるように思えてきます。勝手尺度ではありますが、『知らぬことがもったいない』とさえ。

「人知を超えることが世の中にはある。」と確信出来る経験は、良し悪し超えて価値は高いものと思っています。

超能力には物体をどうにかする力学的超能力と、学問的には超心理学などと立派な名称が付いていますが、まぁ通俗的に言うところの透視(千里眼)的超能力に分かれます。今回のテーマは、透視的超能力を得たとする仮説の中で、それらは実質上どう評価出来るのか?をはっきりさせておきたいと思います。

まず、信じる、信じない。肯定派、否定派の理屈を全て棚に上げてもらいまして、「こういう能力、世界はある。」とした大前提で向き合ってもらった方が、より理解しやすいコラムであり、これから私が述べる問題意識と共鳴しやすくなると思います。UFOは100%いる前提で話を進めていきます。いちいち「ある、ない」「信じる、信じない」のひっかかりを気にされると、問題提起の核としたい話の本筋がぼやけてしまうので、まずは、このセッティングをお願いします。

さて、本題ですが、近年の透視的超能力の浸透度は目を見張るものがあって、ジャンルによっては市民権を高く獲得しているものもございます。相当に前評判が高いもので、こんな能力を得ることが出来たら・・それこそ神の力の一部を日常的に使える・・となると、あらゆる意味においてですが、普通の価値観で生きていけるのか?とワクワク感と不安が入り混じる感覚を覚えるものです。

しかし、現状をみてください。そんな能力者やある意味での達観者がうじゃうじゃいるか?と言えば、そう見当たりません。単純にここまで市民権を得てるなら、またこういった能力教室、セミナーが繁茂し、参加する人らも劇的に増加してることを単純に考えれば、英会話や音楽といったお稽古事の存在感と言いますか、同様の手応え感が欲しいと思うわけです。

お稽古事は暫く時間を掛ければ、どんな人でも即生活に反映する手応えを持つものですし、周りにもその手応えを自然と示すことが出来ます。

これは、何故か?

まず第一に考えられる事は、前評判と実際があまりに離れ過ぎている。ではないでしょうか?要は「習得出来ない」ということです。これはこの業界のあるあるです。演出、脚色の有無はさておき。テレビなどで活躍の能力者が魅せる技の数々に時に驚愕致すところはありますが、これらの抜粋を広告、謳い文句にしている割には中々そこまで習得出来ないのです。

また、もう一方の見方ではこれらの人知を超えた能力は当人の「コツ」なるものが大半を占めておりまして、コツはコツで、例えば長嶋茂雄氏のコーチ法ではありませんが、ニュアンス法に終始してしまうのもよく分かります。従って、曖昧なところで理解をせざるを得ないことになりがちです。再現性も打率一割もいけば良いとなるわけです。

超能力業界は大概がこんな調子ですから、いくら人口が増えても、世にはっきりと示すだけの根拠や実力を持ち得ないのです。

草野球にもならないチームが多数いるみたいなものです。ではプロ野球は?大リーグはあるのか?と問われれば、事実ないわけです。せいぜい、監督はすごい。とか、四番バッターだけはいる。とか、伝説上の選手はいた。が殆どです。

悲しいかな、間違いなく「ある」けれども、市民リーグさえ作れない状態です。※余談ですが闇のチームは存在しますが、闇は闇としてこの話題と次元も質も内容そのものが違うので割愛します。

この実情に我々も悔しい、歯がゆい思いもしていることは事実です。ここで、我々の主張や活動や技法もざっくりまとめれば、仮に超能力とした場合を考えたいと思います。前述の広がっているけど、深まらない理由については、記述の通りですが、よしんば、誰がやっても衆知のお稽古事のように平均的に深まるとしたとしても、次の課題と言いますか、ボタンの掛け違いや認識を履き違えると価値そのものを失うことになりかねませんので、改めての問題提起を。

まず、私も大前提として、人知を超えた見方が出来るわけです。いわゆる世間から見たら、超能力が日常的に使える人です。未だに新鮮に感じることは確かにあります。当たり前にやりすごす事でも、これは周りからすれば小さな奇跡の連続なんだな、と思うこともしばしばです。

前述の話ではありませんが、このように何でも見通せるような能力を日常的に使えるようになったら、世間の人からすれば、それはそれは楽しい、また人生の景色が全然違うだろうとか、苦労知らずになるだろうとか、怖いものも無くなるだろうとか、詰まるところ「楽が出来る」と思われる傾向があります。

それは、全くの誤解であって、能力の有無で人格のあり様や環境が世間と大きな差が生じるか?と言われれば、そんなことはありません。全く世間様と抱える悩みや問題は同様でございます。

「楽は出来ない」
「劇的に何かも変わらない」

です。ただ一点、世間様との差を申し上げるとすれば、人様にこの力を使い、そうは真似出来ない貢献が自分なりに出来ることくらいではないでしょうか?

結局のところ、どんなに優れた超能力があっても、悩むし、詰まるし、失敗するし、忍耐はいるしで、どこまでも人格、人間性を高めんとする宿命は、社会人として何ら変わりがないということです。運も人も成長ありきですから、「器の成長と共に。」とは本当によく出来た言葉だと思います。そうなんです。超能力といっても、きっかけは人間が起こす現象ですから、人間に元々備わる能力として大きく見れば、大したことは・・まぁ、大したことではありますが、神格化するなんてことはナンセンスと言えるのです。

ですから、こういった能力のお習い事の再現性(打率)もさることながら、打率5割、8割打者になったところで、同じ人生の苦労は、それぞれにあるということです。別腹というか、別格というか、これは打率5割打者以上になってからでないと肌では理解出来ないとは思います。だから、元々人間の能力は人の為に活かすものであって、この凝縮した能力(超能力)は特に、ただただ、世の為人の為に。があるのかもしれません。

しかし、ここに哲学や重心を置いとかないと、習ったものの、使えたものの、せっかくの能力そのものの価値を薄めてしまう、どこかで捨ててしまっていることになりかねません。また、もう一方の危険性は、ならばと、自身を「神格化」させて、能力即利益構造に走ることも否定できません。

世の中に本当の意味での質とボリュームをもって超能力をスタンダード化させるためには、また、プロリーグを発足させるためには、まだまだ超えていかなければならない、ある意味、目に見えない壁があることは申し上げておきたいと思います。

全ては、やはり人格と運の良い間柄から全ては生じるわけですから、明日を予言出来たところで、成長なき明日は何の価値もございません。ということですから、結局、自分にも他人様にも「指南」が必要不可欠であって、その先に「理念」と呼ぶのか、「志」と言うのかがいるわけで、人生変わりたければ、それこそ「楽をしたい」ならば、手前でこれらの準備と過程はしっかりと対応していくことでしょう。

総じて、超能力は「楽」を得られるもんではない。ということはご理解頂けたでしょうか?

また、まだまだ問題山積のごとし、まずはこういった細かいところまでもきっちりしっかり住み分けをしながら・・・各超能力分野における発展と融合を願います。
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