スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平和の代償。

世界中探しても、日本ほど均衡の取れた平和な国はございません。

宗教の自由、言論の自由、憲法に生存権まで定められているわけで、生きる力と知恵、多少の人徳さえ失わなければ、路上で野垂れ死ぬこともないのです。と雖も、大半の国民が労働意欲を失わず、人としての在り方を遵守する民族性を持っています。格式高い国でもありながらも、そこに自由と平等が自然体で存在している我が国を一国民として誇りに思います。

さて、話は飛びますが、京都のイメージは皆さんどうお持ちでしょうか?例えば、日常生活では朝食は何を食べているイメージがありますか?あくまでイメージで。

和食メインで、お漬物は欠くことがないとか?どこか古都の慣習、風習が日常的に行われているイメージがあるわけですが、府民の圧倒的多数がパン食です。菓子パンしかり・・・。このように、時代と共に変化を遂げるもの、淘汰されるもの、伝統的に残るものがありますが、そこに普遍的なもの、変えてはならぬ、無くしてはならぬものがあります。これから何百年経とうが、普遍の価値観というものを強く認識しておかなければなりません。普遍的とは、すなわち原理原則、曲がるものでも、曲げられるものでもないわけです。

さて、ここからが本題ですが、冒頭で述べた元来の日本人の在り方と、現代の日本人の在り方に「慣習の変化です。」では収まりがきかないほどの根本的なズレと、無造作な価値観が広がり続けていることに、危惧を超えて、このままでは取り返しがつかなくなる、正にその一歩手前の危機感を持っています。

非常識は常識がある人間が成せる離れ業。と同様に、原理原則に則った上での「革新」であって、つまりイノベーションなわけです。

我々の業界は特に、と言えますが、その他類似する新興コーチング系に集う一部の人達や、反社会活動をされている一部の人達を見ていますと、「原理原則」を曲げている、無視しているとしか思えないような思想、主張、価値観をお持ちの人がここ十数年で爆発的に多くなったように思います。一昔前なら、「変人」扱いされるような人達ですが、現代は・・・私は本当に都合の良い言葉だと思いますが、コミュニティ化とか、シェアするだとか、あたかも権利が守られているかのような風潮が一般化され、それぞれの居場所で夢見る夢子ちゃん同士の体のさすり合いをしています。

これを、平和ボケの副産物。平和の代償と、私は呼んでいます。

『革命と維新』

世界広しと雖も、有史以来、日本国だけが、革命と無縁の国家であるのは周知の事実です。明治維新も、明治革命ではございません。

日本国は、2600年以上原理原則を曲げず、根強くあり続けてきたからこそ、日本人としての格式、品格が守られてきたとも言えます。この土台にあって、それぞれ単位において改革、革命はあるわけです。繰り返しますが、国として、革命は実質上存在しません。すなわち、日本人のアイデンティティの根幹(和の精神)に革命はなかったということです。このことからも、会社、組織、地域単位で、革命を起こせたとしても、根幹(原理原則)を曲げる革命は、その後が続かないことが多々あります。それだけ日本人のDNAは冒し難い原理原則が働いているように思いますし、無くしちゃならない魂でもあるように思います。

であるにも関わらず、近代の平和ボケの副産物団体(人達)は、受け継がれてきた魂を否定、つまり革命を謳います。例えば、正しい思想とは何か?の定義は、非常に難しいのわけですが、はっきり言えることは、思想そのものは、実社会では通用しないということです。いや、距離を置かれるが正しいでしょうか?

この事は、現代の社会問題として真剣に取り上げなければならないとさえ思います。

この時代に、この国に産まれてきた以上、従うべきところを従わず、原理原則に背くことは、「不要の産物」としてみなされます。たった一度の人生、不要の価値観で、井の中の蛙でいたいでしょうか?10年、20年、不要な学び、経験をしたいでしょうか?1000年後に、そのいずれかの思想や価値観がこの国の、いや世界の根幹、原理原則になりうるかもしれませんが、夢のまた夢の話は、正に不要で、不毛を認識すべしです。

これだけ、あらゆる思想や価値観が至る所で爆発的に増殖しても、この国を、社会を牽引している人は確かにいるわけで、それも、ごく一握りの超一流の人物です。実際は、あらゆる国民がこのでっかい徳の手のひらの上で生かしてもらってわけですが、その事の一ミリも気付かぬままの迷人が山ほどいます。

だから、何度も言いますが、平和ボケです。

前回も述べましたが、「愛」は実社会では微力なり。です。それなのに、人間学を教える立場の人が、何でも愛に繋げる傾向がございます。まして、豊かな国だけです「愛」をこれほどに語るのは、本来なら「愛」そのものの力が、実質として必要とされるのは貧しい国、地域です。

愛も、時と場所と場合によっては、正に砂漠に水の関係であり、命を癒す不可欠な価値となります。愛の定義は前回述べた通りでありますので割愛しますが、国土が豊潤な先進国で、まだ言いますか?必要以上の資源は害にもなることを知って下さい。

愛が害になるとは、荒唐無稽の狂言か?と思われるでしょうが、はっきり申し上げておきます。実社会における造化論で言えば、愛そのものの力や役割は脆弱です。

はい、このことからも、やはり平和ボケの代償と苦言を呈したいわけです。

階段には、0階があることをお忘れなく、0階を飛ばして、いきなり一階、二階からスタートとは現代風で、系譜、大元「源」の0階を踏んで、初めて一階、二階と。けれども、実質は踏まずとも0階があるわけですから、本来は自動的であって、この上に立っていることをより認識するだけでも随分違いますね。

余談ですが、随分昔に、議論より対話だとか、善悪に偏らないとか、思想を展開している方達と話す機会がありまして、あまりに憤りを覚えましたもので、あえてこう詰めました。

向かいにいた女性に対して、「一目惚れしました、まぁ、でも結婚までは考えれないけど、割り切りもありながら、しばらく僕と付き合って下さい。」

向こうはあっけにとられてましたが、すかさず私は、「は?と思ったでしょ。嫌だと思ったか、考えようによっては有りかもとでも思いました?(皮肉)で、答えは?Yes、No?」

前にいた男性に、「金貸してくれ。明日必ず返すから。はい、どうですか?貸してくれますか?貸してくれませんか?死にそうなくらい困ってます。」


はい・・・、私は何が言いたかったと申しますと、世の中の大半が本音と建前の交錯であって、時に裏腹な心理を突かれる詰問、事態に見舞われるわけです。

あなた達は、これらをどう処理するのですか?または、内心どう思ったのですか?

私らは、こんな事態にならない、そんな人間関係にはならない、と思い込んでる人ばかりです。

違いますよ、距離を完全に置かれているか、仮面のまま、同様の意図があって近づいてきていることに気付いてないか、気付かぬふり、演技をしているかしかありません。

不要の人間学、不毛な人間学を学べは、いつの間にか実態のない世界にいてしまっていることを、勇気を出して向き合ってみてほしいと思います。

平和を願うならば、平和ボケからの脱却をまずは・・・。
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

和泉堂 坂上 透

Author:和泉堂 坂上 透
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。