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正しい「徳」の解釈。

簡単に申し上げれば、徳とは善行より備わる特質を指します。生きるとは、これすなわち徳を積むことである、と言うほどに、徳は人格の大黒柱とも言えましょう。

さて、東洋思想に「道徳」という言葉がございます。まず道とは恍惚な存在でありながら、絶対的な法則が働いているものとしております。道は常に無為にして、而(しか)も為さざるは無し。とは有名な老子の言葉で、「無為」とは、意図なし、作為なし、あるがままと解釈します。道は無為にして為さざるなしとは、道は特に人が作為せずとも、既に為している。としており、「余計な事を考えたり、手を加えないでも、あるがまま、ありのままで自然に成していく。」という意味です。無為自然、天地自然の働きに身を任せて生きることを『理想の生き方』としている思想です。

この思想から読み取れることは、道は恍惚な存在と徹底していることからも、神よりも道を上にしている捉え方にますます驚嘆するばかりです。

この「道」の思想から東洋哲学が始まりました。以後数千年の歴史の中で東洋思想、哲学は発展し、様々な表現が目に耳につくようになりましたが、実際はこの道こそ、始まりであり、終わりであることを常に忘れてはなりません。

とは言うものの、この「道」の思想だけで、時と共に複雑化していく社会秩序の中で生きていくのは困難です。また大衆に「人の生き方」を具体性をもって示すにはあまりに高尚(曖昧)すぎることもありましたので、次の時代に出てくる思想と言いますか、実践的な真理が、そう『徳』です。ここで始めて融合し、道に徳あり、すなわち「道徳」となって、現実に則した人の生き方を説く哲学として体をなすようになりました。

はい、ここからが本題です。

冒頭にも申し上げましたが、徳とはすなわち善行由来としています。善行といっても広義の意味でもありますし、何をもって善行であるか?や、徳(徳目)の見方は様々で、多岐にわたりますが、とりまとめ、ひとまずの導入として善行由来としておりますので、誤解がないようにお願いします。しかし、ここからも察するに、実際の徳の概念を広く捉えることは求められるし、余程外れない限りは、人それぞれの主張を尊重する姿勢はあった方が良い思います。

私の場合ですが・・・、

よく徳とは何か?を例える時に、重々しく、高い位置付けでは説明しません。

足し算、掛け算の話の展開よりも、「悪徳」つまり、人を陥れたり、妬んだり、利己主義すぎたり、相手に迷惑しか掛けない害を及ぼす考えや、行動をとらない事が、既に「徳」の概念があります、と布石を置くように伝えます。

この意味の意図は、自律があるだけで既に徳があるとしたいわけです。更に人様に「与える」ことが出来るならば、より宜しいと思います。ここで始めて俗に言う善行となりましょう。

しかし、与える、与える、善行、善行と申しましても、この厳しい社会で、また現実の重りを背負いながらの人生で、徳行と言っても、その心象や動機、見え隠れする腹も様々です。それで公明正大で高潔、純な気持ちが善行であるとか、「真の与える」であるとかを定義付けされてしまうと、何をしても自信喪失、腑に落ちようがなくなります。

つまり、人それぞれの徳(徳行)の在り方は違っても良いし、違って当たり前でもあるし、そこに純度を突き詰めない見方も幅があるわけで、すなわち「徳を定量化」することを控えたい、本音を言えば、するべきではないと思っています。

このことは、つまり徳は定量化出来ないと言うことです。さて、冒頭にも記載しましたが、よく「徳を積む」という言葉がありますが、皆さん、どう認識されているでしょうか?徳行を続けるといった意味なら良いですが、あたかも徳の貯金と言いますか、徳そのものが財産のように積めるという認識があるなら、それは間違っています。徳は貯金のように積めるものではありません。当然、徳の働きで、自然にもたらされる有形、無形の財産はあっても、徳そのものを積み上げられる、貯められるものではありません。

このことは自転車の発電式ライトの原理に似ています。ペダルを回せば点く、回さなけば消える。「生きている」とはつまり、ペダルを回していることであり、力強く回すか、緩やかに回すか、弱々しく回すかの差であり、ライトの強弱は様々であるけれど、光は光、徳は徳です。しかしまぁ、力強く回すと、広範囲に光が及ぶので、人の成長、環境の改善、発展に伴い、段々と力強さは求めたいところですが・・・。

はい、従って、生きることを止めた時点で、徳は完全に消えるものとしております。ペダルを回さない、すなわち生きているようで、生きていないことが、不徳としているわけで、不徳の害は内外にすぐ顕わるので厄介でもあり、徳自体は積めない、の根拠にもなっています。

徳力とは生きている以上、常に「ある」もので、呼吸のようで、個性みたいなものと捉えて下さい。

水鏡庵ブログの「前世論」でも言及しておりますが、過去生の徳力だとか、前世で善行を積んだからだとか、生まれながらに徳が高いだとか、あたかも個が連鎖して生まれ変わりをしている説を否定している立場から言わせて頂ければ、それは、徳の高い家系に生まれたと表現すべきです。当たり前です、徳の高いことを代々続けてきた家系は、その子孫は有形、無形の加護があるわけですから、家系の徳力の隔世遺伝と言いますか、魂レベルでもその加護は元から引き継ぐことがあるわけです。しかし、その子孫が傲慢になる、まさにペダルをこぐのを止めたならば、その時点で全てはリセットされるわけです。※止め続けた場合です。

総論に入ります。

このように単に徳(徳行)と言っても、意味、価値、解釈、手段のバリエーションは無数ですから、私は、その全てを含んだ徳(徳行)の在り方について、より万人に伝わりやすい言い方をさせてもらっています。それは、それぞれの立場で実践しやすく、また色々な感慨をぶつけても自信を喪失しない、腑に落ちやすい表現かと思います。

では『徳(徳行)』とは?

「徳(徳行)とは、人に社会にお役に立つことをする。」

で、全て言い尽くしているのではないでしょうか?

難しく、道徳とは?人徳とは?功徳とは?または人格者とは?を論じすぎて、小難しく学びすぎて、どこか高い位置から指南するような論語読みの論語知らずにならない為にも、シンプルに、

「お役に立つ」

を、始まり終わりの「徳」の概念であり、実践法であり、既知の最小公倍数でもあり、最上の哲学としておりますが、如何でしょうか?

何気なく日常で使っている「徳」について、一度深く考えてみることも、徳の扉を開けることにもなるでしょう。(微笑)
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